不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

出来門伝吉

 まぁ今日書くのはそんなキレイな話ではないので苦手な方はスルーしていただくとして、いつもがキレイな話を書いているのかと言われるとそれはそれで言葉につまるのだが、本日改めて皮膚科に行って背中にできたできものは粉瘤である事がわかった。皮膚の下に垢がたまって、そこに雑菌が入って痛くなったという。詳しくは各自検索していただくとして、よくあるものだそうだが、薬を飲んで治る事はなく中の膿みを出し切らないといけなかったりするのでちょっと対処は面倒くさい、ちょうど忙しい時期にさしかかるのでそれが気がかりではあるが会社の近くの皮膚科だし、そもそも自分の健康が第一だ。今日担当してくれた先生が、「まだ硬いので、もうちょっと柔らかくなってからにしましょう。そうですね、三日かな、三日くらいでもっと柔らかくなるでしょうから、そこでね。その間に中身が破裂しちゃったらそれはそれですぐに対応しますから」と、これだけだと熟れかけている果物の話みたいでちょっとおもしろかった。実家ではできものができると「出来門伝吉(できもんでんきち)になった」という駄洒落みたいな事を言っていたのだが、今回カミさんにそう言ったら「は?」という顔をされて終わった、そりゃそうだ。

九月六日、雨は気まぐれ

 できものができてちょっと痛むので試しに近所の皮膚科を調べると、ちょうど休日診療をやっているところがあったので午前中に行ってみたら、金土日しかやっていない皮膚科らしく、そのせいか激混み、受付はしたが呼ぶのは夕方頃になると言われたので結局キャンセルし、出直す事にする。カミさんと合流し、昼飯を喰ってからニトリを覗いて棚などを物色。年末にかけて模様替え、の前の整理をしようと話し合い、そのためのものを探す。計画倒れにならず実行に移さねば。

 台風の影響か、気まぐれな雨を台湾茶屋でやり過ごしてから帰る。家から皮膚科への道で汗をふいたハンドタオルを落としてしまい、わりと気に入っているものだったので帰り道で見つからないかなと下を見ていたら、発見。あるものだな。帰宅し、カミさんが見ていないというのでNetflixで『マイノリティ・リポート』、俺は三度目くらいか。わりと雑な脚本、というか世界観。犯罪予知システムを全米に広げるというが、三人しか予知能力者がいないのにどうやって広げるのだろう。それ以外もあれはどうなっているというツッコミどころが多く、それを埋めるためではないだろうが、トム・クルーズのボケみたいなシーンが結構ある(腐った牛乳飲むとか、自分の目玉を落っことすとか)。改めて見ると変な映画だな。

 夕飯喰ってからも何か見ようかと思ったが頭痛がするのでやめる。

九月五日、予定外と予定通り

 急な仕事が入ったとカミさんが言うので、俺は家にいた方がいいのかいない方がいいのかと聞いたらどっちでもいいとの事で、見たい映画もあったので一人で出かける事にする。新宿に出てから、そういえば大学時代の友人が新宿御苑のギャラリーで写真展を行っているはずで、行けたら行くかとトボトボ歩いていたらその友人にバッタリと遭遇したので一緒にギャラリーまで。確か七、八年ぶりのはずだが昨日の講義ぶりかのような感じがして不思議だった。写真を見て、あれこれ話して、じゃあまたと言って別れる、次はまた七年後にならんだろうな。

 昼飯を喰ってからバルト9へ。一人で映画館も久し振りなら、バルト9に行くのも久し振りだ。見たのは『ブルータル・ジャスティス』。思ったより長尺で、終わったらもう夕方前。カミさんに連絡したら仕事が一区切りついたそうなので、地元駅で待ち合わせて、カラオケに行きたいと言うので付き合う。曲を選んでいる時に、そういえば今夜はThe Yellow Monkeyのライブ配信だった事を思い出す、危ない危ない。カラオケ後、ささっと蕎麦屋で飯を食って帰宅。

 無事に開始時刻から配信鑑賞。ライブは昨年末の名古屋ドームのもので実際に見に行ったのだが、それはそれこれはこれ、配信は配信で楽しんでいる。三時間近くあり、途中で風呂に入るつもりだったのに最初から最後までガッツリ見てしまい、見に行ったライブのはずなのにメチャクチャ楽しんで、さらに疲れてしまった。

 よい一日であった。

東西南北は上下左右ではない

 カミさんが「あそこにある店さ」と話し出したのだが場所がわからず、空中に四角を描いて「下が駅だとしてどこらへんにあるの?」と上下左右のつもりで聞いたら、「こっち」と指したのが奥だったので「二次元で聞いたのに三次元の答えが返ってきた」と驚いた。その後も「ここにある店の横の細道を入っていった先」「だったら裏通りのアーケード街といえばすぐわかるよ」といった会話が続いた。カミさんは、まぁ極度といってもいいだろう方向音痴で、一回信号を右に曲がったら着く場所でも信号でないところで曲がったり、何なら左に複数回曲がったりする。聞くと一応理由(考え)あっての判断なのだが、今日の会話から地図を頭に描けないのだろうとよくわかった。俯瞰して見られないといえばいいか。「ここ、店が変わったね」という会話をしても忘れて、自分でそれに気づくまで情報が更新されなかったりするので、風景や場所に対しての処理速度と解像度が低いのかもしれない。一方俺は場所に対してはいいんだけど、人間に対しての解像度が低い。すれ違う人や店員の顔や服装について、あとでカミさんから「今の人、かわいかったね」と言われても全く覚えていない、見ていない。顔も名前も覚えるのが苦手だ。会話の最中にスイッチが切れる事もあるので処理速度も駄目。人間、得手不得手というものがあるものだから仕方ない、興味ないものは覚えられないのだ。だが俺は人間に興味がないにしても、カミさんは場所や風景に興味があるはずなのだが何故だろう。

屋根まで飛んで壊れて消えた

 ハンドソープもボディソープも押したらモモモモッと泡が出てくるタイプを使っているのだけれど、これが全然減らない。最初に泡にしてしまう事で適量・最小量で済ませるから長く使えるのだと理屈はわかっていても、押しても押しても変わらず出るので半永久的に使い続けるような気にさえなる。ボディソープは、まぁ俺は数日に一回くらいしか使わないので、というのも以前タモリが歳食ったらむしろ毎日石鹸でゴシゴシ洗わない方がいいといった事を言っていて、姉と住んでいる時は姉が長風呂なのでいつも先に入りたかったのに、「今日は、ほら、タモリだから」と言って先んじられ、要は身体を洗わないから早いよという意味のタモリという名詞が姉弟間でできていたのだが、そのタモリの日があるからボディソープを使う回数は俺は少ない。だがハンドソープは、それこそこういう日常になってからは頻繁に使うのに減っていない気がしてしまう。泡がいかに少ないものを多いように見せる実体のないものなのかよくわかる。『TV's HIGH』に村山富市がゲストで出た時、木村拓哉が「バブルってなんですか?」と聞いたら「泡だよ、泡」と即答していたのを思い出す、番組放送時はそれなりに長いインタビューだったのだがDVD版ではこの一言で終わっている、完全版を出してくれ、あと木村拓哉はもっとコメディをやれ、三枚目をやれ。この番組で青島幸男が「もう一回バブルを起こす」と言っていて、まぁそれ自体がギャグなんだけど、同じ事を真顔で言っていた元経営者を知っている、「もう一回バブルは来る」と。誰あろう俺の親父でバブルが弾けてから少し経って会社も弾けたのだが、真面目に語っているから笑いを堪えるので精一杯であった。「また景気が良くなる」と言いたいのだろうが、バブルはやっぱり泡で実体がないからその後また不景気やんけ、そういうのもういいから。この発言から十数年経ったがいまだにバブルは来ていない、アベノミクスで景気は実際のところどうなったんだ、消費税を減税しろ、給料をあげろ、それが駄目なら休みをくれ、泡ではないものを俺にくれ、ハンドソープとボディソープは長持ちしてくれ。

TV's HIGH [DVD]

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  • 発売日: 2001/10/17
  • メディア: DVD

舎弟たちの世界史/スマートフォンから指を離して聞いてくれたまえ

 韓国の現代小説は一時期何冊か立て続けに読んでいたのだが、ちょっとしたブームになると共に少し冷めてしまって(ブームに対しての反感めいたものがあったわけではなく、そんなものは持っても仕方がない、ブームになると玉石の石の方が増えてしまっていくつかその石を引いてしまったので、それで少し置くようになっただけ)、まぁそれでもたまに読んでいたのだが、このイ・ギホ『舎弟たちの世界史』(新泉社、小西直子訳)はなかなかよかった。しつこいほどのディテールの書き込み、独特の比喩とユーモアの連発、丸括弧を多用した文体、そして執拗とも言える読者への語りかけ(「聞いてくれたまえ」)で、いつしか他人の物語を自分の物語へと変えていく演出手腕がすごい。歴史のうねりに巻き込まれた一般人という視点の引きと寄せを交互に繰り返し、マクロとミクロの二つで語っているのもいい。それでも中盤までは正直いまいち乗り切れないところがあったのだが、第二部第三部と進むにつれて、ユーモアと悲哀のブレンドが絶妙となりいつしか読みふけた。「舎弟」を個人と国家(アメリカの舎弟になってしまう韓国。それは日本も同じと言える、いや、より深刻かもしれない。だが日本でこの日米関係を小説にしたとして、このようなユーモアと悲哀で書けるだろうか、書ける作家が出てくる事を願いたい)の二つの観点で見出したのもうまい。人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇、とあっさりとはとても言えないのが人生である。

舎弟たちの世界史 (韓国文学セレクション)

舎弟たちの世界史 (韓国文学セレクション)

いろんな夏が終わる

 夏の終わりがいつかはっきりわかるわけではないが、八月が終わったらもう残暑だなと思うし、九月も半ば過ぎれば秋になっている、最近はこの時期でもまだまだ暑いけれど、だからいまは夏の終わりが始まったのだなという気がしている。今年の夏も何もしなかった、秋の入り口で少しは何かをしたい。とはいえ何かできた人の方が少ない夏であったろう。デヴィッド・ボウイのライブ盤とゆらゆら帝国をよく聞いた、ボウイのライブ盤はいまも聞いている。全ライブ盤を聞くつもり。何もできなかった夏を過ごすたびに、ゆらゆら帝国の“通りすぎただけの夏”を聞いて、無言の夏を、今年以上に無言もそうそうないであろう夏の終わりの始まりを思う。


ゆらゆら帝国 - 通りすぎただけの夏