終活を始めたという知人のジイサンが「服はいつも一回りでかいサイズを買っていて、あんたにピッタリだからいいやつ出てきたらやるよ」と服が送りつけられるようになった。衣装ケースが予告なく送られてきて、夏服だけで五、六箱来ただろうか。何度か来たと思しきものもあれば、タグがつけっぱなしのもあり、何故か同じシャツが何枚も出てきたりと、量が多過ぎて処理が大変だったがようやく止まったのでホッとしていたら、寒くなってきたら冬物で再開、今日も来てこれでさらに五箱だろうか。とはいえ冬物はかさばるので点数は少ないのでまだ助かる。一応一つひとつ見ていき、残すもの捨てるもの売るものと分けていく。夏物はまあまあな物が多いが、冬物はなかなかいいのが揃っている、有難いのだがどんどん増えていくので困ってもいる。何故同じコートを三着も持っているのだ、しかも私が気にいるやつを。「もう十分なんですけど」と電話で伝えたら「まだいいのあるぞ」と嬉しそうに言う。終わろうとする方が楽しそうで、とりあえず残る方が大変だ。
ちょっと前に読んだノンフィクション
アルテュール・ブラント『ヒトラーの馬を奪還せよ』(筑摩書房、安原和美訳)。帯の「事実は小説よりも奇なり」を地でいく美術ノンフィクション。戦火で失われたはずの「ヒトラーの馬」が見つかった、果たして本物なのか贋作なのか、そして一体誰がどこに置いていたのか……探っていけばいくほど、陰謀論もかくやの裏世界が目の前に展開されていく。ぜひ一本の劇映画にしていただきたい。人物がみな胡散臭くて、とても美術の世界では生きていけないなと思わせてくれる。そして、あの戦争は確かに終わったけれど、世界と歴史はずっと地続きなのだと教えてくれる。都市伝説や噂、謎はバカにはできないが、《物事には限度がある》と著者も一応最後に付け加えているのを忘れずに。東ドイツのあれこれなど知識として知っているのと、実際の声とはやはり違うなともわかる。それはイスラエル・パレスチナもそうなのかも(だから何も言わずに、黙っているという事ではなく)。
かげはら史帆『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(河出文庫)。単行本で出た時におもしろそうだなと思いつつ読まなかったのだが、文庫入りしたので早速読む。帯コメントとして宮部みゆきが「徹夜本です」と書いていて、まぁ私は徹夜はしなかったけれど確かに抜群におもしろい音楽ノンフィクション。ベートーヴェンは耳が聞こえなかった事をご存じの人は多いだろうが、自身は喋られるので相手がノートに書き込み、それにベートーヴェンが答えるという会話の方法だった。その書き込まれた会話帳は言うまでもなく第一級資料のはずだが、なんとこれに手を加え会話を捏造していた人物がいた、誰だ、ベートーヴェンのそばにいた秘書シンドラーであった。一体いつ、どうやって、そして何故……その謎を追う。捏造事件そのものを知らなかったので驚きだらけだった。交響曲第五番のあの音が「運命が扉を叩いた音」とベートーヴェンは本当に言ったかどうかが不明だという、そんなバカな。シンドラーの見たベートーヴェン像、その周辺も含めて様々な人間心理のノンフィクションでもある。本書はシンドラーを主人公にした一つの物語として書いているけれど、実はこれはこれで「何故あなたに、彼が何を見て、どう考えたのかわかるのか」という問いが生まれてしまうのだが、さすが著者はしっかりとその問題を認識しており、《立脚すべき方法を持たない書き手が、ひとりの嘘つき男の目線から物事を語ろうとする危うさについて、私はいくども自問自答した》(単行本版あとがきより)そうで、ならば信用できるなと思った。
首/みんな〜殺ってるかい!
北野武監督、待望の最新作が戦国時代の信長の跡目争いと聞いて期待と不安が半々であった。時代劇としては『座頭市』があるもののあれはヒーロー活劇であり、今作は群衆劇だ。北野武は「過剰に省く」か「過剰に入れ込む」という癖があり、おそらく後者であろうと予想はしていた。果たせるかな、名無しの登場人物までハマりまくる配役の妙、どの役者も熱演をし、撮影も演出もキマっていて、戦国時代の大ネタ小ネタ、たけし自身のボケ等々、どれもこれも悪くないどころがなかなか粒揃いのはずなのに、作品を通して見ると一人ひとりの人物(キャラ)や一つひとつのエピソードが組み合わさって立体的になっておらず、どうにもハリボテ感を覚える出来映え。二時間ほどの予告編を延々と見ている気分になってしまった、というのが正直な感想だ。実際、予告でいいシーン流しすぎていた、つまりは予告以上のシーンがなかった。構想三十年の間に他の戦国時代劇がいくつも作られ、また新たな解釈も生まれたのもあり、今作でたけしならではの斬新な解釈は見つけられなかった。男色要素も驚きはないし、それほど効いてない。
二、三作目は血肉を通わせ見事な自分の作品に仕立てていたが一作目の『アウトレイジ』は「ヤクザごっこ」に過ぎなかったが、今作は「戦国時代劇ごっこ」と言えるのかもしれない、同じように続編ではなくとも次にまた戦国時代劇を撮ったら見事なものになる可能性はある、やる気があるのか、撮れるのかというのは置くにせよ。思いついたネタを入れまくったせいで散漫となっており、たとえば岸辺一徳演じる千利休(ハマり過ぎ!)が茶室を舞台に、信長、秀吉、光秀、家康の権力争いストラグルを差配するとか、抜け忍の曽呂利新左衛門(木村祐一、こちらもハマり役)があちこち行く事で狂言回しにするなど一本筋を通す工夫が欲しい。
その新左衛門の「みんなアホか」というセリフが全てで、天下というあってないような概念を巡って、大の男どもが命をかけて騙し合い殺し合う様を、ある種のブラックコメディとして乾いた笑いを誘おうとした意図はかなりおもしろい(だから女性はほんの少ししか出てこない)。「全員悪人」の戦国アウトレイジではなく、「全員バカか空っぽ」という戦国みんな〜やってるかい!をシリアストーンで撮ったと見るべきなのかもしれない。「何してんだろ」と呆れながら。
妙に酷評になってしまったが楽しんだよ、本当に。期待が大きいぶんの文句だと思っていただきたい。この豪華キャストで(いまの武だから揃える事ができた布陣だろう)、この規模の戦国時代劇はなかなかないし、随所にある武ならではのブラックユーモアと引き寄せられるショットは見応え十分です。ただ、やっぱり北野武映画には「省略」と「跳躍」が欲しかったのが正直なところでした。最後に秀吉役のたけしは、さすがにちょっと重かった、年齢的にも演技としても貫禄としても。
十五年後の「毒されたデルフィンたちよ」
立憲民主党の塩村あやか議員の「プロレス」ツイート(ポスト)を発端に、Twitterはじめネットで業界・ファンが騒がしかったここ数日。該当ツイートの詳細内容や是非はここでは置く。ただ、レスラーやファン、関係者が個別に考えや感想を書く事は構わないし、プロレス団体の社長が個人として反応するのもまぁわかる。しかしながら、新日本プロレスという現在の業界最大手団体が一議員の一ツイートにわざわざ意見書を申し入れた事は、明らかにやりすぎだと私は思う。
ところで、私はかつてこんな日記を書いた事がある。
格闘技や「リアル」に毒されたデルフィンたちよ - 不発連合式バックドロップ
書いたのは十五年前の二〇〇八年、新日が棚橋弘至と中邑真輔によって暗黒期から抜け出そうとしていた頃、PRIDEが消滅した直後、ノアの三沢光晴がリングで亡くなる直前、そんな時代。何故Yahoo知恵袋で話題になったのかは忘れてしまった。今回同様、「プロレスはやらせか」というテーマに、「やらせ? ふざけんなよおまえ」という事を思うがままに書き散らしたものである。すなわち、今回議員を批判した人達と同じ立場であり、またその立ち位置はいまも変わっていない。
しかし今回の騒ぎから自分の日記を思い出し、この若書きな上に他人の言葉の引用・孫引きで構成されたお恥ずかしい日記をわざわざ引用したのは、ここにある冬木弘道やジャイアント馬場の言葉が、いまのプロレスファンに響くのだろうか、と思ったからである。今回の「プロレス」問題へのSNSでの反応を見ると、政治家(しかも野党の女性議員)が相手だからと党派性から批判めいた事を言っている人も多いように思うのだけれど、それ以上に「『プロレス』『プロレス』と言っているが、君たちの『プロレス』、ひいては『リアル』とは何ぞや」という思いに駆られてしまったのだ。「君たちはいま『毒されている』と自覚をしているのか」。
言うまでもなく古参ファン、いや、もはや最低限の観戦に留まり、熱心には見なくなってしまった現在の私はプロレスファンとは言えず、引用日記末尾に書いた化石になってしまった身であるから、いまの若いファンが耳を貸す必要はない、老人の戯言なのはわかっている。スルーしていただいて結構だ。だがしかし、塩村議員にわざわざ団体として意見を申し入れた現在の新日本プロレスを、もし冬木や馬場さんが、もっと言えばアントニオ猪木が生きていたら、どんなふうに見て、何という言葉を残しただろう。そんな事が気になってしまったのだ。馬場さん、あなたが“独占”したかった「プロレス」*1って、こういう「プロレス」でしたっけ。
一一月二三日、藤子・F・不二雄
本日は北野武最新作『首』公開日で、自称キタニストである私は当然初日、なんなら初回に駆けつけるはずだったのだが、のっぴきならない事情で後日に延ばした。そののっぴきならない事情とは本日が甥っ子の誕生日でもあり、「一緒にここへ行こう」と誘われていたのである、甥っ子には勝てない。そして「ここ」とは、神奈川県川崎市にある藤子・F・不二雄ミュージアムであった。
登戸駅で待ち合わせて、専用バスで十分で到着。完全予約制で姉がとってくれた。できた当初から一度は来たかった。姉と私が幼少の頃、家には藤子不二雄(FもAも)と玖保キリコ、手塚治虫の漫画が豊富にあった、あとジブリ。F氏亡き後の作品は触れていない、藤子プロが意思を継いでいるであろうとは思うが、F氏が存命だったらジャン・レノにドラえもんをやらせるようなCMを許したかと疑問でもある。ともあれ、私の基盤の一つであろうF氏のミュージアムを楽しみにしていたのだが、いやはや、情報が多く、あれもこれも知っているし、知っているけれど楽しいし、細部までネタが詰まっているしで期待以上。ただ「ドラえもん」がメインを陣取るのは仕方ないにせよ、もう少しF氏の別の作品や人となり、もっと違った一面、「こんな作品が!」という驚きも欲しかった、というのは贅沢かな。そのつど変わる企画展をチェックしてまた来るしかないか。これほど子供と外国人が多いミュージアム鑑賞は初めてかもしれない、わちゃわちゃしているのが気にならないのもおもしろい。外国人はアジア系ばかりだったが、欧米人はF氏に興味なし?
展示を見終わったのがお昼頃でミュージアム内カフェに入ろうとするも、同じように考えている人も大勢いて百五分待ちと言われたのですぐに切り替えて、グッズを買ってからバスで駅前に戻る。ラーメン屋が多い道があったのでそのうち一つに入ったのだがこれが大失敗、まずかないけどうまくもない虚無の味、隣を見たら姉も同じように能面のようになっていた。さっさと食べて、電車で新宿に出る。久々の新宿は花園神社が二の酉で人が多い。うまくMUJI CAFEに入り、ようやく落ち着く。だらだらと過ごし、少し早い時間だけど伊勢丹へ移動し、甥っ子のリクエストらしい天一で天丼、ずいぶん舌の肥えた小学生だ。昼飯からあまり時間が空いていなかったが、うまいものはスルッと入る、異様に満腹になってしまったけれど。
解散。甥っ子よ、誕生日おめでとう。なおプレゼントは先にAmazonで送った。
四ヶ月ごと
来週に診察予約が入っているのだけれど、起床後と睡眠前の咳込みと呼吸がだいぶおかしくて生活に支障をきたし始めたので、これはあかんなと急遽本日病院へ行く。担当医の第一声は「悪くなっちゃった?」、対する答えは「はい」の一言。レントゲンを撮り、検査のために採血をし、点滴へ。七月の日記にこう書いた。
三月に四ヶ月ぶりに点滴をしたが、今回も四ヶ月ちょっと振りに点滴、そうすると次また四ヶ月後だとすると十一月あたり、年末で忙しいのであり得る、あり得ると思ってしまうのが残念。*1
そう、いまは十一月、あり得たのである。ちなみに初回は昨年の十一月で、見事に四か月ごとに点滴を打つ羽目になってしまった。この定期的なスパンが何を意味しているのかは、まだ不明。次あるのなら来年三月、鬼が笑いそうだがもうそろそろ鬼も気の毒に思ってくれそうだ。まさか一年経っても変わらぬ状況だとは思わなかったな、何とかしたい、方々からは「会社やめろ」と言われているが、うーん。