不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

三食連続

 連続カレーは禁じているのに、昼の時間にちょうど某駅にいてどこの店も混んでおり、時間がないからと空いていたC&Cカレーに入り、夜は居酒屋で会食だったのだがうどんが名物だからと〆に頼んだのがカレーうどんで、気づいたら三食連続カレーであった、一番カレーを食べている時だってこんな事はほとんどなかったのに。どうも最近、連続だとか、××だらけ、といった事が多い、気をつけねば。

ル・ロワイヤル

 夕食のカレーとその後の茶を共にした友人から「君はうまいものを食べると、『うん、うん』と確認するかのように頷いて、そのあとに目が合うとドヤ顔をするよね」と言われる、全くの無意識だった、意識していたらそっちの方が怖いか。ドヤ顔というか、たぶん、うまい、と顔で言っているだけなのだろう。逆にまずいものを食べたら完全に無表情になるそうだし、これも無意識だから自分ではわからない。だがわかりやすい、メシ以外でもわかりやすいと言われている、悪い事ではないのかもしれんが。ドヤ顔をしたのはカレーの時ではなく、喫茶店コーヒーゼリーの時だった。コーヒーゼリーに生クリームとバニラアイスが載っていて、その名も「コーヒーゼリー・ロワイヤル」、クリームとアイスがつくとロワイヤルなのか。ロワイヤルは「王の」「王室の」といった意味だそうだ、王のコーヒーゼリー、王がコーヒーゼリーを喰うのだろうか、いや王だって喰いたい時があるかもしれない。チーズ・バーガーは「チーズ・ロワイヤル」で、ビック・マックは「ル・ビッグ・マック」、神の力って何かわかるか? QT新作、楽しみだな。

余談から脱線

 忘れてかけていたイヤホンの話だが、余談を書くのが楽しくて本題に入れず、本題とはイヤホンそのものの話なのだが、むしろ余談を書きたくて書いているのだけれど、余談を書きたくて余談を書き始めたらそれは余談ではなく本題であり、余談の事を書きながらその余談を書かなければ余談にはならない。余談と同じような言葉で脱線があるが似て非なるものであると思う、脱線は「本筋から話がそれて別のところに行き着く」で余談は「あってもなくてもいい余計な話でそれ単体としてまとまっている」、と考えてから試しに検索したら《余談は、話題に関係するけども必要ではない話をすること。脱線は、話題とは関係の無い全く別のことを話し始めること》という一文が出てきた、同じか全然違うか、それこそ似て非なるもの。

 脱線という言葉は昨年末に読んだ友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』に頻繁に出てきた言葉で、というよりも脱線こそがこの本のテーマであり文体であり構造であって、俺はBOOTHで買ったのだがそこの説明文に《ところが「私」が『百年の孤独』を読もうとすると、つい話が横道に逸れて脱線してしまう。しかし、その脱線こそが読書の登坂車線をつくり出し、気づけばあなたは『百年の孤独』を読んでしまっている》と書かれており、そこに興味を引いて購読をした。読み終わって、正直『百年の孤独』を読む気にはならなかったが(いずれ読みたいとは思っている)、脱線はおもしろかった、しかし前述の定義に従えば脱線ではなく余談になるのではないか、だがそれは本人次第というか、まぁどっちでもいいといえばいい。俺としては友田とん氏は脱線というよりも、一見『百年の孤独』とは無関係のものを並行させる事で、その無関係のものの辿る道と行きつく先を描く事で『百年の孤独』を「代わりに読」んで言ったのだろうと思う。

 Aを書くために、Bを並べて、一緒に進めていくスタイルである。これは本当におもしろかった。翻って俺が最近書いているのはAから付随したBを延々と書いているから、やはり少し違う。友田氏はAを書くためにBを書いているが、俺はAを書きたいのにBを書いていてそれはAを書くためではなくかといってAとは関係ないわけではなくBを書く事でAを書くことになるのではないかという勘違いから書いているのだ、自分で書いていて何を言っているのかよくわからないのだが。イヤホンの余談はこれで終わります、本題も終わりです。また別の余談を。
kawariniyomu.booth.pm

休日派いつもの日記

 ラーメンを喰って、古本屋を覗いて、コメダ珈琲で駄弁って、買い物をして、公園を散歩して、夕飯を喰って、明日の仕事の用意をして、風呂に入って、用意の続きをして、日記を書いて、寝る、という特筆すべき事のない休日だったが、心のどこかには昨日のトラブルのしこりがずっとあったような気がする。

休日派トラブル日記

 昨夜からトラブルというか、頭を抱えるというか、そこまで大事ではないがかといって小事でもない案件が発生していて、俺はそれの当人ではないが無関係でもないという立ち位置で、なかなか対処の面倒な事態に陥っている。陥っているが、特に何がする事できる事もないので今日はとりあえず出かけてしまう。

 渋谷に出て昼飯(カレー屋パク森がカレー屋パクパクもりもりと何故だか名前が変わったが、店内にはまだパク森という名前もちらほらあってメニューはほとんど同じ店)をとってから、ヒューマントラストシネマ渋谷で『運び屋』を見る。老人の白昼夢あるいはマチズモの妄想、そう言いたくなるような勝手すぎるジジイと物分かりのよすぎる周辺人物による物語だと、改めて振り返れば思ってしまうのだけれど、ためらいや淀みが全くない筆さばきが見事なもので、見終わったら爽やかな気分にすらなってしまったから、クリント・イーストウッド恐るべし。

 映画が終わってスマートフォンの電源を入れたら着信あり。電車に乗るなどをして一拍置いてから掛け直すが出ない。メッセージを残しておき、買い物をしてから帰る道すがらに再び着電、出る。当人ではないのに何故俺に電話がと思うがそれはともかく、解決というほどではないが、少しだけ安心できる状態に。夕飯(豚肉とキャベツの重ね蒸し、豆腐わかめサラダ、カクテキ、白米、味噌汁)、カフェラテの後で気づいたら寝ていた、正直ホッとして気が緩んだからか。

 といった感じで具体的な内容に触れずに、ぼかしつつ書いておくと、後から読み直した時に何の事やら全くわからなくなりがちである、日記の意味なし。だが、いい話ならともかく、悪い話なら忘れた方がいいとも言えるので、それでいい気もする、まれにこれでも思い出せてまた悩んだり怒ったりする事もあるが。

食べたくなる本/おいしくなければ意味がない

 三浦哲哉『食べたくなる本』(みすず書房。著者は映画評論家で、『サスペンス映画史』や『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』を読んだ事があっておもしろかったが、本書は正直その何倍もおもしろいのではと思ってしまった。ご本人がどう思うかは知らない、結構前に読み終えていたのだがどう感想を書こうか悩んでいたら時間が過ぎてしまった。料理の本ではなく、料理本の本。単に料理本の内容や著者の考えをトレースするのではなく、著者が考えに考え抜いたレシピを再現する、実は料理本を読んで書いてあるレシピで料理を作る我々もまさに同じ行為をしている、それはある意味遠回りの方法によって見えてくる自分と食そのもの、あるいはその関係。趣味の本といえばそうなのだが、最後には福島、放射能と食の問題にも切り込んでいて、間違いなく、現在の本。Netflixで本書を元にしたドキュメンタリーが作られないだろうか、絶対におもしろいと思うのだが。

 一昨日書いた「行かなくてもいい店」を読んだ姉から、「いいねを100くらいつけたかった」と感想が来て、「外の店ではプロの業を食べたいよね」との事であった。その流れから「甘くないケーキはうまくない、体にやさしいケーキはおいしくない」とメールで言う。これはある料理法ないし思想についてなのだが、それが好きな人もいるので名前や詳しい内容は割愛する、ともあれ身体にいいかどうかを考え尽くしたもので、ケーキにも砂糖を使わないようなものであった。姉も母もそれを学んでいて、ある程度共鳴もしていたのだけれど、ことケーキに関しては前述のように否定的だった、俺はその事が何だかツボで、思い出すたびに笑いがこみ上げていた。わざわざ学んで、身体にいいとされているけれど、「うまくないなら意味がない」と一蹴する、一言でいえばロックである、パンクである、見習いたい。

 極限において求めるべきは「パンか薔薇か」という問いに対しての答えは「パンも薔薇も」のはずだが、ここで薔薇をおいしさに置き換えたらどうか。「飢えが凌げるのであれば、おいしくないパンでもいいだろう」と言われて、確かに極限の状況であればカチカチのパンだって有難いものなのだが、果たしてカチカチのパンだけで生き続ける事に意味があるのか。贅沢な食材や料理が欲しいわけではない、せめてパンがやわらかい、あたたかい、ちょっとだけ塩やバターがある、それだけで違うはずだ。人は食べなければ生きていけない、だったらおいしいものを食べた方がいいに決まっている、だからおいしくなければ意味がないのだ。

食べたくなる本

食べたくなる本

休日派豚トロ日記

 行くたびに変化している不思議なダンジョンになって久しい下北沢駅だが、最近になってようやく最終形が見えてきた、たぶんこれが基本の形になるんだよな、ここからまた大幅に変わっていく事はないと思うのだが。駅内でできた小田急線と井の頭線の乗り換えが改札外になっていて、これが混乱を生みそう、実際混乱していた。せっかく洗練されたデザインにしても、混乱を防ぐためにでっかい字の看板を建てなければならなくなり、結局ダサくなる、よくあるパターンである。

 コーヒー豆の焙煎を注文してから、久しぶりに茄子おやじへ。オーナーが変わって、内装が変わって、だから雰囲気も変わって、味も少し変わった気がして、でも変わらずうまいのだけれど、やっぱり変わったなと思った、それは街にも言える。もう知らない店の方が多い。コーヒー豆を受け取り、古本を買って、冷たいレモネードを飲みながら地元に戻る。ぶらぶらするつもりが人混みに疲れて帰る。人混みが嫌いだ、大方の人は嫌いだと思う、人混みが好きだという人はいるのだろうか。体力気力を削られて帰って、居間で一息ついていたらいつの間にか寝ていた。

 夕飯は豚トロ、シーザーサラダ、長芋と人参のバター炒め、白米、赤だし。書いた通り、豚トロが入った弁当箱をなくした。その前にも豚トロの弁当を家に忘れた事がある。俺と豚トロの因縁をここで決着つけるために、今日これを食べた。嘘です、冷凍庫に買っておいたのがあっただけです、うまい。新しい弁当箱を買わねば。カフェラテを飲み、本を読み、風呂に入る。今日は春分の日、春だ、これから日が長くなる、気分転換に鼻下のヒゲを剃る、気分はそんなに変わらんけど、どうせすぐに生えるし。日記を書いて、本を持って床へ。明日行けばまた休みだ。