不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

余談から脱線

 忘れてかけていたイヤホンの話だが、余談を書くのが楽しくて本題に入れず、本題とはイヤホンそのものの話なのだが、むしろ余談を書きたくて書いているのだけれど、余談を書きたくて余談を書き始めたらそれは余談ではなく本題であり、余談の事を書きながらその余談を書かなければ余談にはならない。余談と同じような言葉で脱線があるが似て非なるものであると思う、脱線は「本筋から話がそれて別のところに行き着く」で余談は「あってもなくてもいい余計な話でそれ単体としてまとまっている」、と考えてから試しに検索したら《余談は、話題に関係するけども必要ではない話をすること。脱線は、話題とは関係の無い全く別のことを話し始めること》という一文が出てきた、同じか全然違うか、それこそ似て非なるもの。

 脱線という言葉は昨年末に読んだ友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』に頻繁に出てきた言葉で、というよりも脱線こそがこの本のテーマであり文体であり構造であって、俺はBOOTHで買ったのだがそこの説明文に《ところが「私」が『百年の孤独』を読もうとすると、つい話が横道に逸れて脱線してしまう。しかし、その脱線こそが読書の登坂車線をつくり出し、気づけばあなたは『百年の孤独』を読んでしまっている》と書かれており、そこに興味を引いて購読をした。読み終わって、正直『百年の孤独』を読む気にはならなかったが(いずれ読みたいとは思っている)、脱線はおもしろかった、しかし前述の定義に従えば脱線ではなく余談になるのではないか、だがそれは本人次第というか、まぁどっちでもいいといえばいい。俺としては友田とん氏は脱線というよりも、一見『百年の孤独』とは無関係のものを並行させる事で、その無関係のものの辿る道と行きつく先を描く事で『百年の孤独』を「代わりに読」んで言ったのだろうと思う。

 Aを書くために、Bを並べて、一緒に進めていくスタイルである。これは本当におもしろかった。翻って俺が最近書いているのはAから付随したBを延々と書いているから、やはり少し違う。友田氏はAを書くためにBを書いているが、俺はAを書きたいのにBを書いていてそれはAを書くためではなくかといってAとは関係ないわけではなくBを書く事でAを書くことになるのではないかという勘違いから書いているのだ、自分で書いていて何を言っているのかよくわからないのだが。イヤホンの余談はこれで終わります、本題も終わりです。また別の余談を。
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