不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

日記と言葉

 コロナ禍の日々を書き記しておこうと作家と編集者は考えたのだろう、いくつかの文芸誌で日記特集が組まれた。単行本としては『仕事本 わたしたちの緊急事態日記』(作品社)『コロナ禍日記』(タバブックス)が出ていて、コンセプトは同じだが筆者が違い、それ以上に本としてのスタンスも違う気がした、何がどうと言語化できないのが情けないが個人的には後者の方が好み。有名無名作家それ以外、多くの人が何を見て、何を書き残したのか、なかなかに興味深いものである。

 が、一方で「日記を書く」というのは存外難しい、あるいは向き不向きがあるのだとわかった。これは前々から薄々感じていた事だが、今回同じ日々の事が書かれた日記を同じタイミングでそれなりの量を読んだために、はっきりと認識する事ができた。公開が前提だとしても、日記には外への言葉を書くものではない、「言いたい事」を書くのではない、「書き残したい事」を書く、これは大きな違いであり、自分への言葉が外にも響くかどうかはまた別の話なのだ。

 といった事を、ひろしまタイムラインに絡めて少し前に書いた。

 SNSと日記の言葉 - 不発連合式バックドロップ

 そのひろしまタイムラインが今日になって悪い意味でまた話題になっていた。差別的な表現があった、しかも創作だ、いや手記・インタビューにならって使った云々。手記、インタビューというのは外に向けたものであるから、日記と同じではないのだけれど、この件を知った時も上記に書いた事をまた思った。

 私たちはSNSに毒され外を意識しすぎている、あるいは意識しなさすぎていないだろうか。発信/受信ばかりを気にしていないか、あるいは誰かが受信する事を考えていないのではないか。SNSでの反応というやつを気にしながら、どこかに届く届いてしまう事を見誤ってはいないだろうか。ひろしまタイムラインの炎上からはすっかり離れてしまうが、いやむしろそこがネックなのではないかとも思う、つまりその言葉は誰のどこへの言葉なのか、と。ないかないかばかりで恐縮です。

 繰り返すが日記とは誰かに見せるつもりが全くなかったとしても、どこかで誰かが読むかもしれないという意識があって、しかしそれでも日記に書かれた言葉はその人だけのものなのである。言うなれば、穴を掘る作業に似ている。穴を掘って、そこに顔を突っ込んで叫ぶ。俺はここにいるよ、いたんだよ。聞いてくれ、聞かなくてもいい叫ばせてくれ、ここに叫んだ跡だけを残しておく──そうした穴を、どこかの誰かがいつか見つけるかもしれない、その時に残響を拾うかもしれない、その誰かがまた叫ぶかもしれない。それが日記であり、もしかしたら作家という人種の原始的行為なのかもしれない、読者を意識せず、書きたい事を書く、俺はここにいると。作家でないのに知ったふうに書くが。冒頭書いた文芸誌や単行本の日記書き達は穴を掘っていたか? 掘っている人は少数だ、まぁ俺の勝手な考えだけど。

 ではこの日記、ネット上のブログはどうなのか。穴掘りではなく丘作りに似ている気がする。少しずつ高くしていく。一気に高くなって丘どころか山になる人もいるが、俺なんかは少量の土を少しずつ盛っていき自分なりの丘にしているだけだ。小さな川もあるだろう。たまに寄っていってください、わりと眺めがいい時あるんですよ。行きますか、そのうちまた会いましょう、俺はここにいます。