不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

SNSと日記の言葉

 今日、TwitterのTLで「1945ひろしまタイムライン」が大きな話題になった。

 1945ひろしまタイムライン|NHK広島放送局

 真面目で真摯な試みだと思う、その一方で小さくない違和感を抱いた。それが何なのかを考えてみると、ハッシュタグにもなった「もし75年前にSNSがあったら」に行き着いた。SNSというかTwitterだけだと思うのだがそれはそれとして、今回のツイートは三人の日記をもとに「創作」されているという。しかしSNSと日記は全く違うものでそこに書かれている言葉も異質で、それをごちゃまぜにしていいものだろうか。そもそも、かつてそこにいた人間の、その時に書かれた言葉を、七十五年後に「創作」して発信/受信をしてしまう、これは一種の演劇のようにも思えるのだがそれにしたってこの言葉へのアプローチは乱暴すぎやしないか。

 七十五年前に我々と同じ場所に立っている(立っていた)人々の言葉としてSNSを使って現在とリンクさせて、繋がっている事を示そうとした事は理解できるし、反応した人は真剣に受け止めて考えているだろうが、簡単にリプライして(できて)しまい、RTやいいねという数字で「評価」されて、その結果、彼らの言葉や記憶が「消費」されているように見えてしまった、というのは言い過ぎだろうか。

 また「もし75年前にSNSがあったら」、その時だって誰かからリプライがあって反応するはずだがそれはない。当然である、もとは日記なのだから。内向きである事で外への力を持つ日記の言葉が、SNSという完全に外にだけ向かっている場で使われてしまう事。俺は日記、特にブログ以前の紙の、つまり公開を前提としていない有名無名に限らぬ「日記」が好きで、それへのロマンチズムみたいなものを持ってしまっているから、過敏にそう感じてしまうだけなのかもしれない。だが、仮にこれが舞台での演劇や映画だったらどうなのかというと、どういう演出・脚本かによるけれど、「言葉」が「作品」となりそれに相対する時の心構え、発信側と受信側の信頼関係や了解、距離が生まれるから、あまり違和感を抱かないと思う。

 「日記」の言葉は、たとえ書いた人間が公開を前提としなくとも、誰かに見せるつもりが全くなかったとしても、どこかの誰かに向けられているものではあるが、同時にしかしそれでも「日記に書かれた言葉はその人だけのもの」なのだ。企画の監修者は言う。《書かれた日記を手がかりに、その主が見たもの、聞こえたこと、感じたことを、みんなで頭と心と身体を駆使しながら想像し、SNSの向こう側にいる人々にその手触りをもった言葉を届けることができれば》と。その思いはよくわかるし、俺は否定もしないし、もしかしたら多くの人に届いたのかもしれない。

 だが俺は、《その手触りをもった言葉》は本当に彼らの「手触り」で、彼らの「言葉」なのだろうか、と疑問に思ってしまったのだった。