不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

極夜行/闇よりもなお暗いとこ

 一日中太陽が昇っている白夜があるのだからその反対があってもおかしくないのにこれまで考えた事もなかった、一日中太陽が沈み夜の中にい続ける、そんな時間を極夜という。それを知ったのは本書、角幡唯介『極夜行』(文藝春秋に触れた時だった。評判がよいのは知っていたが(何かの賞をとったよな)、旅ノンフィクションは苦手なので何となく読むのがのびのびになり、ようやく読んだ。

 白夜と聞けばクリストファー・ノーランの『インソムニア』を思い出す、作品を思い出すだけで内容はそれほど覚えていない、夜にならないために主演のアル・パチーノ不眠症になってふらふらしていた事は覚えている。極夜ではどうなのかというと、やはり太陽が登らないため体内時計が狂い不眠症になるし、憂鬱な気分になるという。しかもその地は都市ではない、氷の大地だ。そんな場所で太陽もなく、そして月もなかったら、一体どんな夜の深さになるのか。

 前述したが、都市であれ僻地であれ、旅であれ探検であれ、そういった日本の移動ノンフィクション、いささか乱暴だけれど、沢木耕太郎的なノンフィクションが苦手で、自意識の出し方といえば聞こえはいいが、要はナルシシズムが鼻に付くのだ。高野秀行はドライでユーモアがあったので大丈夫だったが、著者は苦手な部類にあった。だが、本書がおもしろいのは、そういったナルシシズム、あるいはロマンチズムみたいなものが、極夜の中で跳ね返ってくるところである。

 ナルシシズムやロマンチズム、また著者の言う「探検は脱システム」という発想全てを飲み込んでしまう極夜。どこまでも暗く、何も見えない中で信じられるのは己の感覚のみ、となりそうだがそれは間違いで、むしろ己の感覚だけが信じられず、それ以外のものを信じるしか術がない。現在見える星や月の光、聞こえてくる音……著者はそれを「信仰の原初的形態」だという。と同時に、いま自分の感覚がおかしくとも過去の経験によってそれを補う事ができる事、つまり人間の肉体と精神の根源的な部分が描かれている。それでも著者の書きっぷりには正直鼻白むところがあったけれど、そのように書いてしまう気持ちはわからんではない。

 わからんではないのだが、これは全てのノンフィクション、いや作品に言える事だけれど、書き手が見た「風景」はどれほど言葉を尽くしても読み手には伝わりきらない、物理的な意味だけでなく。著者は本書でこう書いている。

 底の見えない暗黒の深淵。人類の生存活動にとって不都合な空間と時間。あらゆる動植物の息遣いさえ聞こえてこない完全に静まり返った死の沈黙。

 …そこは私だけが潜入に成功した、私だけの秘密の場所でもあった。要するに私が築き上げた世界そのものだった。それが失われていく。私だけの世界が死んでいく。…あれだけの経験をし、あれだけの驚愕をもって、私は極夜の闇に震えたが、それは一度きりの体験であり、もう二度と味わえないものである。その意味で私は今回の旅で極夜の世界を獲得したのと同時に、永久に失ってしまったのだ。…

 現実にその感情をテントの中でノートに書きつけても、早くもその言葉にはどこか上滑り感が生じていた。…記憶はいっそう肉体からダダ漏れしてゆくことだろう。そして極夜の経験は、微妙な上滑り感のあるこのノートの言葉以外に何も残されず、あの時の完璧な経験はもう二度と取りもどせなくなる。それは悲しいことでもあった。

 言い換えればそれが現実と虚構の差である、その溝にあるのが美である、と言ったのはミヒャエル・ハネケだ。本書でもっとも着目すべきはその溝を、ノンフィクション最大の問題にして最大の美を、真正面から捉えた事ではないか、それは極夜という題材だからこそなし得たのではないかと思う。

 現実も虚構も美も飲み込んでしまう、極限の夜。

極夜行

極夜行