2016年5月11日からのThe Yellow Monkey再集結後一年間を追ったドキュメンタリー。各メンバーのインタビューはもちろんの事、バックステージ、移動中、スタジオでの様子、そして出身地といってもいい渋谷La.Mamaでの無観客ライヴから構成されている。オープニングからして、静かな出だしで、ドラマチックにせずに淡々と撮影していく事で、ザ・イエローモンキーという特定のバンドだけでなく、ロックバンドの裏側がこうなっているんだ(どういう作業をしているか、どんな人物がかかわっているかなど)とある程度見える仕上がりになっている。それは、解散インタビューが載った雑誌『bridge』で渋谷陽一がリード文で「これを読めばロックバンドとは何かがわかる」(うろ覚えだがそんなような事)と書いていた続きのようであった。
イエローモンキーについて《ステージ上では完璧なファンタジーとして君臨していたけれど、その裏で彼らがそのために肉体と魂を削っている》と書いたけれど、まさに本作にはその様が映し出されている。しかももう彼らは50歳である。決して若くない。奇しくも吉井和哉が「ちゃんとケアしているのに……」と自らの体調不良についてボヤいていたわけだが、そういう年齢なのだろう。年末(というより年始か)のライブでの一幕は、ステージ上のファンタジーにすらヒビが入ってしまうほど消耗してしまった事の証拠だろう。だが、おそらくかつては見せなかったそういう姿を曝け出してしまう強さがいまの彼らには備わっているようにも思えた。
笑える光景、ほほえましい姿など印象に残っているシーンは多々あるけれど、個人的に一番強くあるのは、12月28日の武道館の控室で、「ここに立つのは1999年以来だ」とヒーセが零した言葉だ。もちろん懐かしさや嬉しさが込められているのだが、ある種の悔しさや孤独もあるのではないか。一方で、吉井和哉はソロで何度も武道館には立っていて、それはソロ活動の成功と言えるけれども、たった一人で12月28日の武道館という特別な日と舞台を守り続けた孤独もあったのではないか。
上記は俺の勝手な邪推に過ぎない。だけど、吉井が「解散を伝えた時にどう思った?」とメンバーにいまでも聞けないし、これからも聞く気がないと言っているのは、そういった個々の15年間の孤独がある事も、それをお互いに理解しきる事はできないともわかっているからではないかと思う。かつて吉井の自伝『失われた愛を求めて』を読んで、手前みそながら俺はこう書いた事がある。
吉井が見て歌おうとしている光景と、俺達(リスナー)が見ている光景は確実に違う。絶対にお互いの光景を知る事はできない。それでもいつか同じ光景を。そう祈りながら、彼らは差異を埋めようと歌い、奏で、俺たちは聴く。そんな日は永遠に来ないと知りながら。
エンドロールで流れる新曲の歌詞に、「外からなんて何もわからない」という一節があった。ありのままを外から撮ったこのドキュメンタリーを否定するかのようだが、そうではなくて、わからない事こそが――俺の言い方でいえば、差異があるからこそ――意味があるのだと思うし、そう信じている。続けて俺はこう書いた。
でも、いや、だからこそ、その差異こそが音楽の一つの真実であり意味だと思うね、俺は。
本作を見て、彼らも同じ思いであったのではないかと勝手に思い、やっぱりこのバンドが好きだし、好きでよかったとより気持ちを強くした。そしてこれからも続くバンドの物語をまだまだ見ていたい、聞いていたいと思った。