不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

休日派読書と睡眠日記

 予定のあったカミさんが早朝出て行った事も気づかずに10時近くまで寝てしまい、起きたら昨日とは打って変わって心身共に不調、不調というか調子が狂っている感があり、何もしないに限ると決めて、とりあえず二度寝。12時前に起きて、このまま家にいても寝てばかりでそれはそれで調子がさらにおかしくなりそうだったので外出。サンマルクで簡単な昼飯のつもりが思いのほか腹が減っていたのですぐにファーストキッチンに移動してポテト、その間ずっと読書で一冊読み終える。古本屋をのぞいた後、図書館に行き、空いている席で適当に本をつまみ読み。カミさんと合流し、ミスタードーナツで一休みしてから、食材買って帰宅。やはり家では転寝。夕飯(ネギ豚)を喰って、カフェラテを飲んで、風呂に入って、日記を書いて、本を持って寝室へ行く、早く寝る。だめだ今日は、こんな日もある。

休日派散歩日和日記

 秋のような冬の晴天という散歩日和、あてどもなく、なんとなく、気兼ねなく、歩く。駅前に出てから隣駅へ、隣駅から最寄り駅へ、最寄り駅から逆方向の隣駅へ、隣駅から歩いて家へ、時折り撮影、あとは歩く。さすがに疲れて、あとは写真だけで、いつもは画角を変えたりするけど何もせずに、今日の日記は終わりです。

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「いろいろある」

 別部署のある人が本日をもって会社を辞めた、人の出入りが多い会社なのでそれ自体は珍しくないのだが、その人が次期社長に内定していたから辞めるのは驚きだった。会社は将来設計を大きく変更しなければならないので、今後混乱が予想される、俺はこの会社に(どの会社でも)ずっといる事はないだろうと漠然と思っているので会社の行く末に関心がないけれど、それがいいか悪いかは知らない。

 それから一ヶ月後くらいに、その人とたまたま帰るタイミングが同じになり、駅までの数分間一緒に歩いて話した。二人で歩く事も話す事も初めてに近かった。

「僕、辞めるんですよ」
「聞いてます。次は決まっているんですか、どちらへ?」
「ええ、まぁ、決まってはいます」

 具体名は避けた。別に構わない。少しの沈黙の後、

「まぁいろいろあったんですよ」
「そう、ですね、いろいろありますよね、人生」
「ありますね」

 それから別の話題になり、駅に着いたら「お疲れ様でした」と言って別れた。この「いろいろある」をどちらから言ったのかは、曖昧だ。彼からだった気がするが、俺から言った気もする、どちらでもいい事なのだが。その後、辞めるまでの一ヶ月の間に辞める理由が噂で聞こえてきた。おそらく真実であろう、だが俺は彼の言う「いろいろあった」だけでいい、彼の発した言葉が一番説得力がある。

 今日の最後の挨拶も「お疲れ様でした」だった。何に疲れたのやら、疲れていない時なんてこの後あるのだろうか。彼と二人で歩いて話す事は、たぶんもうない。

「何とかなんだよ」

 社会人になってすぐに知り合って、最近はたまにしか会わないけれど何かにつけて目をかけてくれる大先輩がいて、今日久しぶりにお会いした。会うと一瞬で出会った頃に戻り頭が上がらない、もう一人の姉のような人だ。「何とかなんだよ」といつも言うその人はいつも何とかしてきた人だから説得力がある。毎度おいしい店も教えてくれて、今日もいい蕎麦屋を教えてくれた。先輩を見ていると、「何とかしなきゃ」と「何とかなるさ」がないまぜになって、糧になる、有難い存在。

ashes to ashes, dust to dust

Twitter、休眠アカウント削除へ 対象アカウントに12月11日までにログインするよう警告 - ITmedia NEWS

 先日、もう更新されないブログについて書いたが、Twitterをめぐって上のようなニュースが流れ、嫌だ残念だという声が大きいようで、コアなTwitterユーザーの中には「死者の生きていた証を消す権利があるのか」と怒っている人がいたけれど、権利はあるだろう、一企業として商品ないしサービスを運営しているのだから、そもそも「生きていた証」なのだろうか。Twitterをインフラあるいはメディアと思っている人もいたが、しょせんは呟きでしかなくて、基本的には流れていってしまうものだと俺は考えている。故人の言葉を消す事に何の思いもないのか、企業の考えやいかにと言うのはわからんではない、しかしそれでも俺は消してもいいのではないかと思う。いま聞こえて来るのは生者の声であって死者の意思はどこにもない、遺族であっても本人ではない、本人がいつまでも残しておいてほしいと願ったのなら誰かがその意思を継げばいい、好きにしろ、第三者がああだこうだ言うものなのかという疑問もある。「いなくなってしまった人達のこと、時々でいいから思い出してください」、だけどその誰かだっていつかはいなくなる、誰かを思い出す他の誰かがいる。いつしか最初の誰かは記憶の灰となって消えていく。どんな人間も最後には無縁仏、全ての墓は砂になり塵となり、友よ、答えは風のなか。

永遠じゃなかったそれを、
愛じゃなかった、と言われても、
どうでもいいよ。そう答えるだろう。
どうせ、ぼくは永遠には生きられない。*1

また再読

 西尾維新戯言シリーズを再読した勢いで、森博嗣の『すべてがFになる』も再読、これ一冊は妙に好きで、売っては買い直すを何度か繰り返して、今回はまだ本棚にあったのでそれを取り出した。いつもはこれだけで満足するのだが、今回は続きも読みたくなって、さすがにS&Mシリーズ全て買い直すのは嫌だったので他のは図書館で借りた。長編全十作。いま読むと、もうミステリの謎解きには自分は興味ないんだなと思う。事件が起きた、謎があるらしい、くらいの認識であとは物語の流れや登場人物の会話、意識の流れみたいなものを楽しんでいるだけだった。島田荘司本格ミステリにハマっていたのはもう四半世紀前の事だ。

 このシリーズを読んだのはノベルス版しか出ていない時で、最終作『有限と微小のパン』が1998年、確か俺が読んだ時にはシリーズ作品全て出ていたはずだから99年くらいのはず。今回全部読み終えてからネットで検索したら、シリーズ続編というか、番外編というか、とにかく続きの作品があると知った。正確に言うとあるとは知っていたが、もうこれ十作で終わりにして、森博嗣からも離れてしまったので読む気がなかった。今回せっかくなので、何がどうせっかくなのか、ともあれせっかくなので、借りて読み始めている。2004年に出た一冊で、15年ぶりに続編を読む事もあるんだな。何となくあの時ではなく今読める事がよかったように思う。

ある居酒屋

 一時期、毎週のように通っていたある居酒屋に行かなくなったのには特に理由はなくて、ただ何となくとしか言いようがないのだが、一年半ぶりくらいに今日行って料理はおいしかったのに何故かやっぱり今後もあまり来ないだろうなという確認のようになってしまった。どっちが変わったのだろう、どこが変わったのだろう、はっきりした事なんかはわからない、来年二月頃にその店は閉店する、後継者がいないというのがその理由だそうだ、寂しいけれど寂しがる権利は俺にはなかった。