不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

消化に力を使う

 高級ではなく手頃な値段なのにメッチャうまい中華料理を喰った、満足だが喰い過ぎて疲れた、最近外でいいもん(≠高級)を喰うと疲れるようになってしまった、オッサンの証拠だ。若い時は金がないからいいもんを喰えないけれど収入が増えて喰えるようになった頃にはもうそんなに量は喰えない、というのは老化あるあるネタである。若い時に本を読め、歳をとったら文字が読みにくくなるから。若い時に旅行へ行け、歳をとったら遠方に行きにくくなるから。だがそれに気づくのは歳をとってからだからままならない、そんな事に気づく若者も嫌だけど。

ブックカバー

 本を買った時は文庫でも四六判でも新書でも必ず書店の紙のブックカバーをつけてもらう、ハヤカワポケミスはつけないかも。なんの気なしに今日読み返した『今日の早川さん』2巻で、電車で早川さんの隣に座った人が書店カバーのまま本を読んでいて「身だしなみに気を遣っても、ブックカバーは気にしないんだな」と心で思うひとコマがあった、前に読んだ時も今回も書店カバーは駄目なのか、読書家の多くはちゃんとしたブックカバーを使っているものなのか、と思った。

 買った時にブックカバーをつけてもらって、これから読む本ゾーンに置いて、持ち歩いて読んで、読み終えたら外して本棚に、いまはもう棚に入れる箇所がないから積んである本の上にストンと置く、外したブックカバーは捨てる事が多いが気に入ったものは取っておく、それが一連の読書作業だ。古本の場合はストックしてある書店の、あるいは布のブックカバーをつける、つけない時もたまにある。図書館のはつけない事が多い、図書館本にカバーをつけるのは過剰に感じる。

 大手書店は無難なデザインのものが多いけれど、小さい書店は独自のデザインでよい。先日本を買った下北沢のB&Bはブックカバーがなかったので残念だった、今後買うのを少しためらってしまいそうなほど。いまは東京堂書店によく行くので東京堂のものが多いのだけれど、ここは紙の質もカバーの仕方もピッとしていて気持ちがよい、すべての書店は東京堂書店で一度働いた方がいいのではないか。でも一番好きだったのが、いまはもうない本屋だ、ブックカバーだけでなく本屋としても一番好きだった。跡地が携帯ショップになって数年経つ、気に入った店や場所がなくなって時が経つと、あそこは本当に実在したのかと夢のように感じる時がある。あるけれど手元に残ったブックカバーが本当にあった事を教えてくれる。

ひらがななのがポイント

 たとえば、居酒屋で「えがお」とか「しあわせ」とか、そういう店名だと少し不安になったり、ちょっと嫌だなと思ったりしませんか、俺は思うんですね。かつて流行った(それとも今でも使うのか)言葉「ほっこり」ですか、それを醸し出す雰囲気が苦手。前に書いた「行かなくてもいい店」である。だいたい出てくる料理は家庭料理、壁には俳句や手書きイラスト、時には人生訓が貼ってある。味は悪くないけれど、どうにも居心地が悪く、癒されるはずが疲れる。50代以上のオッサン・オジイサンがよく行くようだが(実際に知り合いでそういう店を好む人が結構いる)、俺もそのうちこういう店を好きになるのだろうか、全く想像できない。

ファンタジーランドの人間たち

 カート・アンダーセン『ファンタジーランド 狂気の幻想のアメリカ500年史』(東洋経済新報社、山田美明・山田文訳、上下巻)。「ホモ・サピエンスは『想像上の秩序』、すなわち嘘とそれを信頼する事で文明を築いてきた」(『サピエンス全史』)わけだが、さらにそこから「信じる(信じたい)ものを信じる」人たちが建国したのがアメリカであり、そのアメリカでの信仰の対象=ファンタジーの歴史500年ピルグリム・ファーザーズ、ピューリタンから始まりフェイクニュースまでをまとめた力作。上巻はひたすらキリスト教とそこから派生した宗教についてを描いていて興味深いが、下巻も概ねそればかりで、できれば80年代からの創作物(映画、コミック、ゲームなど)やネット、SNSにもっと触れて欲しかった。あまり詳しくないのだろう、WWE(プロレス)についての考察はかなり浅めだったし。終盤の今後どうすべきかというパートは、まさにファンタジーであるトランプ政権下で切実な問いかけになっているわけだが、こうすればいいのだ、きっとよくなる、というのもある種のファンタジーなのではないか、と少し皮肉に思ってしまった。というより、人類はみなファンタジーの中にいるし、ファンタジーを使っていると言うべきか。たとえば天皇やら神社やら寺やらその他もろもろいまだにファンタジー全開の日本がよい例ではないか。たぶんアメリカ以上にファンタジーランド

 たまたま併読していた阿部謹也ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』(ちくま文庫も同タイミングで読み終えた。タイトル通り皆さんご存知の寓話「ハーメルンの笛吹き男」について論じた一冊。この話は実話であり、かつて130人の子供が連れ去られた事件が元になっていた、ではその事件はどんなものなのか、そして何故このような寓話になったのかを資料を中心に徹底分析。中世ヨーロッパの一地方の歴史を論じた中盤は正直かったるくて仕方がなかったが、謎解きのような感覚で読めて、おもしろかった。上記本と繋げてしまうと、この話は事実を元にしてファンタジーとして作り上げていった、と言えるだろう。

 主語が大きくなるが、人類というものはつくづく嘘=ファンタジー=空想=フィクション=虚構が好きだし、その上に立っている。歴史もそうだし寓話もそうだし、自分の記憶だってあてにならない。先日そういう例を見た、民主党政権の話をしていたのだが事実と時系列がゴッチャになっていた、思い込んでいるのだ。たまたま最近見たので取り上げただけで他意はない(といちいち注釈を入れるのもなんだけど)。真実なんてものは、あっても泡のごとく消え去っていく。私たちは虚構の中で生まれ、虚構と共に死んでいき、新たな虚構になる、そんな気がしている。

ファンタジーランド(上): 狂気と幻想のアメリカ500年史

ファンタジーランド(上): 狂気と幻想のアメリカ500年史

ファンタジーランド(下): 狂気と幻想のアメリカ500年史

ファンタジーランド(下): 狂気と幻想のアメリカ500年史

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

休日派CURE日記

 昨日15000歩あるいたと書いたけれど、これくらいは散歩好きにとっては当たり前の数字な気がしてきて、わざわざ書かない方がよかったのではないか、いまさらどうしようもないのだが。とにかく、昨日は出歩いたので今日は室内で過ごす事にして、昼飯(ラーメン)を喰って、古本屋と本屋を覘いてからコメダ珈琲でたっぷりミルクコーヒーと読書。一冊読み終えたあたりで退散して、無印良品やスーパーで買い物をして帰宅。家も暑い。サイダーを飲みながらNetflixで『ミッション・インポッシブル:ローグ・ネイション』を再見、公開時に見ておもしろかったと記憶しているが一回だけなので確認の意味もこめて見てみたが、やっぱりシリーズ随一のおもしろさ。夕飯(鶏肉)を間に挟んで見終えたあたりで、Youtubeフジロックチャンネルに回して、今年の大トリThe Cureを見る。こんもりロバート・スミス! 冒頭30分見てから風呂に入り、日記を書きながら見るつもりが、見ていたら書けないのでとりあえずこれを書いて再び視聴へ。フェスでも長時間やるそうだけど今回は何時までやるんだろう、と見ていたら23時頃にフィニッシュ、ロバート・スミスが笑顔で投げキッスをして去っていった、最後の曲は”Boys Don't Cry”。

休日派歩いた日記

 暑くて何もやる気が起きないので何もしない、朝にそう決めたのだが振り返ってみたらあちこち歩き回って、何をしたかといえば歩いたのだ。昼過ぎに公園まで行き、燻製肉屋でホットドッグとガーリックステーキを喰らってから、公園散歩、途中「河川愛護フェス」という夏だからフェスか祭りかつけたら許されると考えていると思われる小さなブースがあったので冷やかし半分にのぞいたら、都の職員が河川についていろいろ教えてくれるイベントで、思いのほか楽しんでしまった、悔しい。電車で下北沢に出て、CUNEで服は見ずにコーヒーを飲む、ここのカフェはレベルが高いのだが冷房が強すぎる。ぶらぶら本屋と古本屋合わせて五軒ほど回って三冊ほど買い、イタリアンレストランで食事。そして地元駅からも歩いて帰った、歩数計を見たら15000歩近く歩いていた、普段が10000歩前後なので多めだ。フジロックYoutube中継を少し見て入浴、日記書き、風呂、寝る、明日も予定なし。

塩辛

 ある柑橘系の入浴剤があるのだが、それを使うといつも脱衣所に入った瞬間、「塩辛の匂いだ」と思ってしまう。わかっている、似ても似つかないのは。生臭いのかというと、本当の塩辛の匂いではないから別にそんな事はない、改めて嗅げば違うなと思うのだが、ふと気を緩めると、だいたい風呂なんて気が緩んでいるんだけど、やっぱり「あれ、塩辛?」となる。カミさんは「そうかなぁ、臭わないけど」と否定的で、俺がおかしいのだろう、他の香りは問題ないのにこの入浴剤だけは塩辛なのだ、俺は塩辛の風呂に浸かっている、健康に悪く、くつろげない。