不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

一一月一六日、マイナスワン

 本作業は昨夜終わったが、別作業があったので午前中にとりかかり、あとは先方の連絡待ちでいつ来るかわからないから自宅待機だなと構えていたら、すぐに明日になると連絡が来たので、じゃあと出かける。目当てのラーメン屋が並んでいたのでやめて、別の中華料理屋で昼飯。ぽっかり空いた時間で何するかとカミさんと相談し、勢いでこのまま映画見ようぜとだるい身体を引きずり映画館へ行く。

 ゴジラ-1.0』。ネット上でいくつかの賛否を先に見ていたし、山崎貴監督はなぁとかなり身構えていたのもあって思いのほか楽しんでしまった、何なら『シン・ゴジラ』より総合点は高いかもしれない。「邦画の悪いところのごった煮」とまで聞いていたので最悪を想定しすぎていたのがよかったのか。感動はしなかった、感心はした、「映画で感心した」が褒め言葉なのかどうかはわからない。

 噂通りゴジラが登場するシーンはどれも見応えあり、何よりも昼に出てきて全身ちゃんと見られるのが嬉しい。大筋は王道であり、つまりはベタなので次の展開が簡単に予想できてそれがほぼ外れない。そのうえセリフや演出や人物造形が要所要所でとても陳腐になってそこで興醒めしそうになるが、メインキャストの演技で何とか底抜けはせず。神木隆之介って演技うまいな、彼が主役でなく下手な俳優だったらいくらゴジラシーンがよくても大惨事になったのではないか。

 終戦直後という舞台設定や特攻隊の生き残りは本当に設定でしかなく、歴史はどこにもなかった。お上の仕事(『シン・ゴジラ』)へのカウンターとしての民間という構図だとしても、政治家一人もいねえのは変。あとマッカーサー仕事しろ。『シン・ゴジラ』には現代(平成)という「国家と歴史」があった(それをどう評価するかは別として)。『ゴジラ−1.0』には終戦直後という「国家と歴史」はなかった(少なくとも薄かった)。娯楽作としては『ゴジラ–1.0』の方が上かもしれないが、刺さった棘としては『シン・ゴジラ』の方が残りそう。「庵野は体制側が好き」みたいな言説を見かけるるがたぶんそれは違って、あくまで「システム」(とそれが動く演出)が好きなだけだと思う(だから身体性が皆無)。国家もシステムで、現代社会においてゴジラに対抗するシステムを描いたのが『シン・ゴジラ』。山崎は知らん。フィルモグラフィー見ても美学が見えてこないし。そういう奥のなさと深さがこの監督にはある。個人的には次作を見たいとは思わせない。

 カミさんとカフェで感想戦を終えてから寿司を軽くつまんで帰宅。催事で買った団子を喰いながらNetflixで『PLUTO』を最後まで。原作漫画は好きで、アニメも結構楽しんだけれど原作以上にえらく感傷的で感情論に走るように見えたなと思ったが、そもそもロボットの感情を論じる物語なのだからこれでいいのかもな、