不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

七月五日、十六年

 タコとキャベツのペペロンチーノを食べてから投票所へ行き、一票を投じる。最近は毎回誰にすっかなと直前まで迷う。そのままバスで駅まで出て、会社へ行くも作業量が少なくて、二時間くらいで終えてしまったので、とっとと帰ってしまう。カミさんが家で仕事しているはずだったので、古本屋を何軒か回ったあと、フレッシュネスバーガークランベリー&レモンソーダを飲みながら読書。一人でこういう時間はいつ以来だろう、店は空いていた。一時間ほどで退店し、帰宅。

 夕飯(豚バラブロックカレー)を喰って洗い物をしたら20時近かったので久し振りにテレビをつけたら、モニターにできていた白いモヤが広がっていてほとんど覆うくらいになっていた、給付金でNetflixなどを見られるテレビを買うか。見たのは選挙速報で、まぁ予想通りだが、結果よりも誰が何票だとか、どの世代が誰を支持したとか、投票データが気になったわけだがそれは現時点では出口調査によるもので、はっきりしたデータが出るのは明日以降だろうから、15分くらいでテレビは消す。SNSを見たら、なんか呪詛のような言葉が飛び交っていた。アイスラテを飲みながら、マイケル・ムーア『華氏119』を見る。Netflixで昨日見ていたのだが終わらず、今日に続いた。言いたい事はわかるがそれが先にありすぎるせいか映画としてはいささかチグハグな印象。さて、今年の大統領選はどうなるやら、どちらでも大変なのに変わりはなさそうだけど結局は他国の事でまずは自国の事をやらねば。

 いま日記を書いているiPadの横に、小さな花瓶に花が生けてある。今日は母の命日で(十六年だ)、毎年カミさんがささやかな花を用意してくれる。俺は死者に花を手向けるとか、写真を飾るとか、そういう事を全然しない。位牌は本棚に置いてあるけど、位牌という物体としか見ない。かといって死者を思わないわけではない。何かの折に思い出す、書いたものを読み直す事もたまにある、それが俺なりの追悼で死者への思いなのだと信じているけれど、こうしてカミさんが目に見える花を用意してくれて、それを眺めたりしていると、こういう形の追悼の良さというものにも気付く。《部屋を飾ろう コーヒーを飲もう 花を飾ってくれよ いつもの部屋に》という歌を思い出す、悲しみからずいぶん遠くに来た、果てかもしれない、何があるかはまだ知らない、《ただあなたの顔が浮かんで消えるだろう》。