不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

欧米諸国に告ぐ

 アクト・オブ・キリング』(監督/ジョシュア・オッペンハイマー

 「現実を虚構(映画)にする事で、虚構が現実を変える」という、前代未聞、最初で最後の映画手法は確かに見入るものがあった。そこら中で「殺」の文字と概念があっけらかんと飛び交っているものだから、ここは本当にこの世なのかと頭がクラクラしてしまったほどだ。見終わって、すぐさま「では、この映画を見て彼らはどう思い、何を考えたのだろう」と思ってしまった。
 あくまで当事者に再現させる事、それを撮影する事が目的だから仕方ないにしても、当事者以外には踏み込まないので、エゲツないはエゲツないにしても底は浅めだったと言える。たとえば家族に「アナタを抱いているおじいさんの手は血で塗られています」と聞く事だってできただろうし、その反応はどうだったのか――ゲスな発想かな。とはいえ、浅めにしたってそこにあるは毒の沼なのだから、踏み込んだだけでもたいしたものなんだけど。
 気になったのは終始、理性・倫理の側から彼らを見下ろしていた事だ。理性の箍をはめる事で最終的にアンワル・コンゴをあそこまで追い込める事ができたのだとは思うけれど、それはアンワルたちをモンスターと見ているからであって、「彼らと作り手や観客は地続きなのだ」という観点が欠けていたように思う。虐殺という人間の理性の敗北を、改めて理性の枠内で理解しようとするのは土台無理な話だ。
 そこから、いささか飛躍するかもしれないけれど、監督に「拷問はジュネーブ条約違反ではないか」と問われた時に、アディ・ズルガドリはこう答えた。(うろ覚えだが)「国際法(国際秩序)は戦勝国が作る。俺たちも勝ったんだ」「それを言うなら、ブッシュはイラク戦争で何をした?」と。奇しくも、ウクライナ情勢において「(冷戦後に)西欧諸国がこれまで何をしてきた?」というプーチンの発言に似ている。
 監督がこの時に答えなかったのか、答えられなかったのかはわからない。彼らを擁護したり正当化したりするつもりはないけれど、いまだに彼らの問いかけに対して明確な回答はなく、実はいま国際社会と呼ばれるものに突き付けられているのは、この問いではないか、そしてその表出として本作もあるのではないか――そんな事まで考えてしまった。言うまでもなく、アメリカの影はそこかしこに落ちているし、カメラの前に曝け出されていたのは腐った民主政治だったのだから。
 本作はショッキングかつグロテスクな作品ではあるけれど、「人間の悪とは」「怪物の正体は」という代物ではなくて、悪い言い方をすれば見世物小屋的なもので、実は作品の存在そのものも相当にグロテスクで歪なのだと思う。
 最後に、完成した虐殺再演作品も見てみたいよね。