不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

横から十字を切って

 ゼロ・グラビティ』(監督/アルフォンソ・キュアロン、出演/サンドラ・ブロックジョージ・クルーニーネタバレしています。

 テレビドラマ『私立探偵 濱マイク』で、いつの回だったかは忘れたが、あみだくじについて「縦の線は人の意思、横の線は神の意思」というセリフがあったと記憶している。縦の線は自分の意思で選べるけれど、横の線には介入できない、という意味なのだが、それをもじれば本作はこうなるであろう。
「縦の線(重力)は神の意思、横の線(移動)は人の意思」
 当初は宇宙パニック・サスペンス映画かと思っていたけど、それにしては雑な個所がいくつかあって結構引っかかってしまうわけだが(例えば酸素の残りが少ないのに無駄なおしゃべりするのは変だとか、大気圏突入に際して角度などを何も考慮していないとか……まぁ私の宇宙の基礎知識があっているのかどうかもわからないのだけれど)、そうではなく、「縦の線(重力)=神の意思」に対する、2013年からの映画による一つの回答だと思えば、それらが些細なものとは言わないまでも、枝葉に過ぎないとは言えると思った。
 観客の共感を得るわけでもなく、神の視点はどこにもなく、これだけリアルにしておきながら宇宙のディティールも、何なら物語すらも遠くに置き、前作『トゥモロー・ワールド』同様カメラと音楽を主人公に同期させる事で、彼らの神経や感情がダイレクトにこちらに響かせてくる作品だった。
 我々は重力によって(言い換えれば落ち続ける事で)生きながらえ、同時に重力に縛られて生きている。文明の発達と並行して飛行機や宇宙ロケットなど「重力からの解放」を目指したものが開発されていったのも、その命題への挑戦であったと思う。そして辿りついた宇宙空間は、「縦の線(重力)」から解放されたが、同時に「横の線(移動)」もままならなかった。文明の利器といった知恵によって確保する事はできても、それはとても弱く小さいものでしかない。
「縦の線(重力)」と「横の線(移動)」二つとも失うという危機から抜け出し、宇宙船の中に逃げ込んだライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)の丸まった姿が子宮の中をイメージしているのは言うまでもなく、そこから今度は自らの意思を持って「横の線(移動)」を手繰り、「縦の線(重力)」を受け入れ、「落ちる事が生きる事」と捉えたからこそ絶望の状況を突破し、その行きつく先が水の中だったのは当然といえば当然なのである。
 そうして辿りついたラストは、重力がある事の恍惚と不安を味わいながら、新たに生まれ落ちたかのように見える。重力の重さはすなわち生命の重さである、というシンプル極まりないからこそ、取り留めのないショットをこうまで神々しく映せるものなのかと、感動と呆然を同時にしたし、再びここで名を出す『トゥモロー・ワールド』の原題が『Children of Men』である事を思い出すと、この映画も同じく『Children of Men』だったのだと思う。
 ライアンはバラバラになった「縦の線」と「横の線」を再び交差させ――人はそれを十字と呼ぶ――その交差点に自らの足で立つ事によって、「縦の線(重力)」は世界と自分を繋ぎとめるものであり、また「横の線(移動)」を手に入れる事こそが人の意思であり、すなわち生きる事である事を証明した。
 では、人はその十字から逃れられないのかというと、それに回答をして見せたのがコワルスキー(ジョージ・クルーニー)なのである。自らの意思で縦からも横からも自由になった彼が最後に発した、そして劇中おそらく唯一出てきた「God」という言葉は、絶望でも悲嘆でもなく、美しいものを見た感嘆であった。
 だから、ストーンが大気圏に突入する際に「結果はどうあれ、これは最高の旅よ」と呟いたのは、十字の交差点へ帰ろうとする生と、そしてまた十字から自由になった死への、両方への肯定の呟きであり、この作品は「神秘」ではなく「人智」を射抜いた、至ってシンプルな人生(人類)賛歌だったのだと思う。
 見終わった後に席を立つ身体がいやに重く感じた。