不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

賽は投げられた

 実は『猿の惑星』シリーズについては知識として知っているが、きちんと見たのはあのティム・バートン版だけだったりする。第一作は見ないとなぁ。
 猿の惑星:創世記ジェネシス)』を見た。監督、ルパート・ワイアット。出演、ジェームズ・フランコフリーダ・ピントジョン・リスゴーアンディ・サーキス

 当たり前だが、全編さる猿サルが所せましと大暴れ、結果はご存知のようにさよなら人類で、言うまでもなく我々観客は淘汰されるそっち側のはずなのに、猿が自力で立ち上がり、ホームから人間たちの都市を見下ろすショットには清々しさを感じてしまった。それだけでも、この映画は勝ちである。
 改めてわかったのは人間は平面で動くが猿は立体的に動く事で、さらに単純な身体能力も違い過ぎる。これで同じくらいの頭脳になったら、そりゃ敵わないだろう。手塚治虫の「火の鳥」の何編かでナメクジが進化していった様が描かれていたが、あれは人類の歩みをそのまま歩んでいて結果同じように滅んでいった。それは人類もナメクジも非力であったために文明が進んでいったわけで、今後この猿たちが築いていく文明は人間のそれとは根底から違うものになるのだろうと思う。
 はっきり言えば、映画の骨格はこれまでにもあったパターンを踏襲しており、迫害、孤独、対決、団結、信頼、決起、前進、犠牲、勝利という流れだ。それが悪いと言うつもりはなく、むしろ丁寧に描かれていて王道の強さを再認識した。シーザーが失意の底から目覚める瞬間は奮い立つものがあり、『世界侵略』ばりの「退却NO!」と言わんばかりの前進と特攻に思わず拳握る。それ以外でも忠誠のクッキーや毛利元就ばりの三本の矢なんぞも出てきて、猿になるだけでこんなにおもしろい光景になるものか。
 一方の人類側は、薬品会社の愚かさは置いておくにして、問題は生みの親である科学者(ジェームズ・フランコ)だろう。彼は一見いい人みたいだが、よくよく考えれば職業倫理がおかしいし、いくら家族のためとはいえ目先の利益のためにあっさりタブーの領域に踏み込んでしまうので、さてこのままで済ませていいものなのか。
 ところでチラシなどの宣伝文句「泣ける『猿の惑星』」「泣き通しでした」といった的外れとしか言えないものはともかく、もう一つの「進化は、彼らを選んだ」はミスリードで、猿たちは革命を起こしたわけではなく、人類と対立して生存競争をしたのでも、環境変化で猿が適応していったわけでもないのだ。事故的に生まれた一匹の猿が、人類からの独立を宣言した。まずはそれだけの話であって、おそらくは(作るかどうか知らないが)続編で人類との本格的な対峙、猿同士の愛憎劇が描かれるのだろう。さらりと第一作への布石も打ってあったし、シーザーが遊んでいたオモチャは自由の女神だったりと、その小細工に心くすぐられた。
 それにしても、もはや本物としか見えないようなCGで描かれた猿の姿と行動は、本来だったら苦笑してしまうような光景だったのに、本作では観客はいささかの違和感を挟む事なく受け入れている。その事実に、技術の進化をしみじみと感じたが、あまりに出来すぎていてかわいげがない。この技術の進化を過信すると「映画」の本質を見誤るんじゃないかなと3D全盛の業界に言いたくなるし、なんせテクノロジーの進化とその信仰のしっぺ返しを描いている本作なだけに、ずいぶん皮肉な構図だなと思ってしまった。まぁアナロギズムやら懐古的やらと言われるとその通りかもしれんがね。