不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

一寸先は闇だから

 ユダヤ人及びユダヤ教の慣習・戒律は日本ではほとんど知られておらず、わかりにくいと思われたのだろう。スター俳優が出演していない事でさらに拍車がかかり、結局一年以上おして日本公開となった一本。たしかにヒットはしないだろうが、コーエン兄弟の作品が見られないというのは、不幸以外の何物でもない。
 シリアスマンを見た。監督・脚本・プロデューサー、ジョエル・コーエンイーサン・コーエン。出演、マイケル・スタールバーグリチャード・カインド、フレッド・メラメッド、サリ・レニック、アダム・アーキン。

「自分が撮りたいものを撮った」という本作は、コーエン兄弟が一貫して持ち続けているテーマ「人間って可笑しくて、哀しい」純度100%でできている。演技、音楽、演出、間の取り方など、どれもが驚くほど高いクオリティになっており、ドライでシュールなユーモアセンスが絶妙なアンサンブルを奏でている。前述したように、ユダヤの慣習などがわかっていれば細部まで笑える冗談がちりばめられている事だろう。無念。
 冒頭、「身に降りかかること全てをありのままに受け入れよ」というラシ*1の言葉が浮かび上がり、本編とは関係ないようであるような、悪霊だ、いや違う、わーわー、みたいな挿話から始まる。
 事実は人の数だけあるが、真実は一つしかない。しかし真実は誰にもわからない。この挿話においても「人を殺した」のか「悪霊を退治した」のか、事実自体は二つあり、しかし真実はわからず仕舞いで、「ありのままに受け入れよ」という冒頭の言葉とは、矛盾しているようにも思える。
 そして始まる本編。妻の(理解し難い)不倫に始まり、お隣との境界線問題、韓国人留学生との単位の揉め事、厄介だがナイーブな弟の扱い、足りない金、カネ、かね……大小さまざまな、理不尽で、不条理と言っていい不幸が、主人公ラリーの元に訪れる。しかし、たいがいの不幸は唐突であり、死は理不尽に訪れるものだ。この映画でも理不尽に事は起こり、それは主人公だけではなく万人に平等で、単なる主人公の七転八倒物語ではない。
 ユダヤ教のラビたちに会い、悩みを告白し、教えを乞うラリー。しかし、誰も答えは言わない。というか言えない。途中挟まれる一つの物語も、意味がありそうでなさそうで、思わず「神は困難を与え、考えさせておいて、答えを与えないのですか?」とラリーは叫ぶ。
 与えられないなら、自分で見つけろよという思考が彼にはできず、自らの苦悩は自分ではない他の誰かに解決してもらおうとする。他力本願、利己主義な男であるが、自分ではそれに気づいていない。それはもしかしたら信仰の問題なのかもしれないが。
 一方、ラリーの息子は、授業中も携帯ラジオでロックを聞き、西部劇に夢中で、ハッパを吸って、成人式をラリッて出席する、ボンクラである。アンテナくらい自分で調整しろ。彼はコーエン兄弟自身がモデルだそうだ。彼には一つだけ不幸が訪れて、そのために、いいかどうかはともかく、何とか自らの力で切り抜けようと足掻きまくる。
 そうやって二人の男が、大小さまざまな不幸を何とか切り抜けた(または勝手に終わる)。しかし迫りくる眼の前の不幸を回避するために、初めてラリーが自分から行動したのと入れ替わりに、電話が鳴る。同時期、息子のもとにも大きな不幸が迫ってきていた。
 映画の流れから、これを「さらなる大きな不幸/災厄」という皮肉と取るのが自然だろうが、しかしこれは本当に不幸/災厄なのかどうかは誰にもわからない。いまのところは鳴った(迫っている)だけなのだ。これにどう答え、どう接していくのか。受け入れるのか、立ち向かうのか。
 目の前にある事実に込められている真実は、きっとわからない。
 それでも、人は真実=答えを求める。明確な答えさえあれば安心できるし、我慢だってできるからだ。この映画は、そのドタバタ劇に笑ってしまうのだが、しかしそれは「映画である」という、ある意味で明確な解答があり、監督という創造主=神がいるから笑えるのかもしれない。
 ところが、現実では答えはどこにもなく、やはり神は何も答えない。神の言葉なんて聞こえない。神なんていないのかもしれない。高位のラビが成人した息子に、含蓄ある言葉でも神の言葉でもなく、ジェファーソン・エラプレインのメンバーの名前を告げたのは、「実際に耳に聞こえてくるロックンロールを武器にしろ」とでも言いたかったのかもしれない。
 と、まぁ「かもしれない」ばかりで、なんとも掴みどころのない映画だった。こちらの考えを差し込む余白がたっぷりあるので、如何様にも解釈できる。いや、もしかしたら、一人のまじめ(シリアス)な男が、事態を深刻(シリアス)にとらえて、ドツボにはまるのを笑うだけの映画なのかもしれない。とにかく最後まで「かもしれない」で埋め尽くされた、自由な映画だった。
 ちなみに、あとで知ったのだが息子が聞いていた、Jefferson Airplaneの“Somebody To Love”はこんな歌詞なのだそうだ。これまた絶妙なスパイスとなっていて、これだからコーエン兄弟はたまらない。

偽りの中に真実と/あなたの死によって喜悦が見出されたときに


庭に咲く花々が枯れ果てたときに/あなたのこころは深紅に染まる


あなたの瞳はまるで“彼”の様/でも“彼”ではなくて肉体はあなた
あなたはここがどこか解らないのでは


泪はあなたの胸まで流れ落ち/あなたの友人達は、まるで他人行儀だ


誰かすきなひとはいないの?
誰かにそばにいてほしいんでしょ?
誰かに恋しているヒトを愛してはダメ
“他の誰か”を探しなさい

*1:ユダヤ教聖典学者、シュローモー・イツハーキーの事らしい