不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ツェッペリン

 仕事で自分のコンデジ(GR)を使用し、データをPCに取り込む際、ついでと言ってはなんだが、前に撮った写真を眺めた。家のPCが音楽データでいっぱいになっていて、写真データはGRのSDカードに入れっぱなしのままなのだ。まぁGRのディスプレイで見ているので、それで「写真は見ている」事にしていたわけだが、PCの大きな(と言っても普通のサイズだが)ディスプレイで写真を見ると、なんというか、感じ取るものが全然違うのだ。
 そして、これはまだ未体験なので推測になるが、きっと現像したら、もっと違う印象になるのだろうと思う。
 いまはGRを使っているが、少し前まではフィルムカメラ固執していた。それはフィルムの質感がいいという高次元の話ではなく、単に、その場で撮ったものを見られないからだった。
 写真は永遠を一瞬に、一瞬を永遠にするものだと信じている俺は、切り取った一瞬をその場で見て判断するのは、何か違うと考えていた。切り取った一瞬は、現像などのある時間を経てから自分の目の前に現れ、そしてその一瞬が甦るものだと。まぁ、いろいろな人の受け売りの、つぎはぎのような考えなのだが。
 その頃は、できてきた写真に一喜一憂して、キャッキャとしていたものだが、コストパフォーマンスと便利さから、GRを購入してからというもの、その楽しみを忘れてしまっていた。
 写真を眺める。撮ったのは、心に留めておきたかったからなのか、それとも心から追い出したかったのか。撮る事で、俺は何をしようとしていたのか、ふと考えだしたらなかなか止まらない。そして何より、こうやってSDカードの中に入れたままで、小さなGRのディスプレイでたまに見返して、俺は何を見ようと、また何を見ていたのだろう。
 押し入れの奥にしまってある、十何冊の昔のアルバムは、あまり見返す事はないのだけれど、開いてみれば、ちゃんと日時や場所、はたまた説明のようなキャプションまで書かれていて、そこにはまぎれもなく俺の過去の一瞬がつまっている。
 写真において、何を、どのような形で、どれくらいの大きさで見るのかは、「写真を撮る/見る」事の一環だ。
 そして、やはり写真は見る/見られる事があって初めて成立するのだ。写真だけでなく、表現においては当たり前すぎる前提だが、しかしデジタルカメラだと、その事を忘れてしまいがちである。撮って満足して、終わり。それではつまらないよな。
 ところで、何度か書いている事だけど、俺は写真が好きで、見るのも撮るのも好きなんだけど、シャッターを切る事はとても少ない。GRを買って7年くらい経っているが、1000枚いってないのだ。森山大道氏曰く「欲望があるほど写真を撮る」そうで、むろん俺にもたんまり欲望はあるのだが、シャッターまで結びつかない。もっと、写真を撮りたい、撮ろう、といつも思うが、じゃあ何で撮りたいのかという事は、まだ答えが出ないし、たぶん出るものではないのだろうな。
 先日、明治神宮を散歩した時、ちょうど結婚式が行われていた。ゆっくり歩いてくる花婿・花嫁をみんなが撮っている中、一人空を見上げると、飛行船がいた。俺はそっちを撮った。理由は特にない。ディスプレイで見ると、小さくてあまりおもしろみのない写真だったが、改めてPCで見てみたら、なかなか味わい深い一枚になっていた。……まぁ俺の中ではね。