不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

文学好きならぜひ一読を

 栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史読了。力作労作。まえがきで《文学における盗作事件のデータをここまで揃えた書物は過去に例がなく、類書が絶無にちかいことだけは自信をもって断言できる》と書いている通り、ここまで詳細な盗作史はないだろう。ある論争が書物に残っておらず、東京新聞のみに掲載されており、東京新聞は縮刷版がないため、一つ一つマイクロフィルムを見ていったとあって、よくぞそこまで、と熱意と努力に感嘆する。
 しかも《この本では、努めて散文的即物的に資料を洗いだし、事件の概要を整理し、必要なら検証を加える、という方針が採られている。批評も基本的にはしない》ので、冷静で、かつ難解ではなく読みやすく、おもしろい。
 一見、ゴシップ的視点からスキャンダラスな盗作事件を扱っているが、その実は文学(芸)批評であり、メディア研究であり、相当深くまで切り込まれている。*1著作権、作家のモラル、ドタバタ劇はいつでもどこでも存在する。
 文学において、盗作と模倣の違いやバランスというのは、なにより難しい。そこに煽ってくるメディアの存在があるので、わけのわからない騒動へと発展する。「盗作と模倣」の問題は、いつまで経っても同じ事の繰り返しだ。
 個人的には庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』とサリンジャーライ麦畑でつかまえて』、井伏鱒二『黒い雨』と『重松日記』、そして田口ランディの事件が特に興味深かった。中でも『黒い雨』事件は、あれだけの人間があれだけ論争したのに、あんな結末にしかならないのか、というある種の衝撃があった。
 それにしても終盤に出現するインターネットの存在は、身近になってしまったから麻痺しているが、とんでもなく不気味なものなのだ、とはっきり認識した。そして、その存在も庄司薫が危惧した通りになって、一歩も動いていない。むしろより複雑に、不気味にそびえたっている。ちょっとうすら寒い気分になった。

(盗作疑惑についての庄司薫の反論)
ぼくはこのような意見、つまり「薫くん」流にいえば、ひとの足をひっぱって自分の存在を主張するといった「品性下劣」な、めめしい発想をとてもお気の毒に思いますし、そのような発想がこうした形でとりあげられるというような時代の状況自体を問題だと考えているわけです。
 そして実は、ぼくは、そのような状況をなんとかしなければならないということを「赤頭巾ちゃん気をつけて」で書こうとしたわけなので、その「赤頭巾ちゃん」を読んで、こういう意見が出てくるということ自体がとても残念というか、そこに現代のむずかしさを感じさせられるように思います。

 本書は文学のみだが、小説以外でも盗作はあるし(最近では唐沢俊一とかね)、漫画ではトレース疑惑がしょっちゅう騒がれている。音楽でもオレンジレンジみたいな騒動はいくつもあった。
 そういった騒ぎを見るたびに、オアシスとビートルズの関係を思い浮かべる。どこに書いてあったんだか忘れたし、うろ覚えだが、こんなやり取りがあった。
 マスコミにビートルズのパクリだと言われても平然とノエルは、皮肉たっぷりにこう答えた。
「俺はビートルズを尊敬しているんだ、彼らの曲に似ていると言ってもらえて光栄だよ」
 また別の時に同じ質問をされ、リアムはにやにやしながらこう答えた。
ジョン・レノンが生きていたらこう言ったろうね。俺らの曲で金もうけしやがって! 半分よこせ!!って」
 まぁこんな事言えるのはイギリスの頭が巨悪いあの兄弟くらいだろうけどね。

〈盗作〉の文学史

〈盗作〉の文学史

*1:もちろん、ゴシップ的な部分のおもしろさもキチンと抑えてある。