不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

1と0の狭間

 読んでいる時から日記(エッセイ)としか読めず、しかし確かに新聞「小説」だったのだから小説なのだろうが、読み終わってからもどっちなのかと混乱していた。
 赤瀬川原平『ゼロ発信』読了。表紙の猫二匹がらぶりー。
 見開き2ページが一日分で《一月A日》とか《五月K日》とか日にちがある。登場人物も「A瀬川源平」だとか「M伸坊」だとかばればれのイニシャルになっている。なっているのだが、時々《A瀬川のAを赤にして》と自分で書いてしまっているので、ますますイニシャルにしている意味がわからない。

 だからこの「ゼロ発信」も、小説ではあるけど、描写小説だ。現実の描写の中に小説がわずかに見え隠れする。そうやって丸ごとは姿を見せない小説を探りたくてぼくもこれを書いている。

 と著者本人は書いているが、俺は違う印象を受けた(こういう印象も、勿論あったが)。
 「日常」=「現実(リアル)」を言葉にした瞬間、そのリアルと言葉に“ずれ”が生じる。そして「現実」が「虚構」となり、「虚構」こそ「小説」だ、と読めたのだ。
 紙媒体の場合、言葉(文章)にしてから人の目に触れるまでタイムラグがある。その誤差、“ずれ”から虚構が生まれ、それが小説になる。としたら、たとえばブログの様に、ボタンを押せば一秒足らずで全世界に向けアップされるものにも、“ずれ”が生まれるものなのだろうか。
 さらに突き詰めていくと、我々が体験した事を話すのも、当然時間が経ってからである。つまり、言葉にする時点で“ずれ”が生じているわけだ。だから、人は現実(ノンフィクション)の世界に生きているが、言葉にするものは全て虚構(フィクション)なのかもしれない。
 タイトルの「ゼロ発信」というのは、我々がどれだけ言葉を駆使しても、虚構にしかならない。「1」という現実を伝えたくても、「0」の虚構となってしまうという意味が込められている、のかもしれない。多分、赤瀬川原平は考えてないだろうが。
 しかし、それでも人は、言葉を使ってリアルを表現していくしかない。

 世の中、何が隠れているかわからない。隠れているものは見ようとしないと見えないから、一生それを見ずに終わることもある。でも見えてしまうと世界は深まり、深まるというのは世界が広がることである。

 世界が広がれば、もっと世界は美しくなる。
 最後にどうでもいい事だけど、赤瀬川原平の顔を思い出すと安藤忠雄になる。同じく竹中平蔵の顔を思い出すと宮崎哲弥になる。何でやねん。

ゼロ発信 (中公文庫)

ゼロ発信 (中公文庫)