不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

昨日の続きといえば続きの話

 「亡くなった父親は仏教徒だったけど、母と私はクリスチャンだったから、死後に改宗して(させて)、キリスト教形式の葬儀を行った」という話をちょっと前に聞いた。三途の川を渡って輪廻転生しようとしたら、いきなり天上の永遠の国に連れてかれるわけで、お父さん死んだ後に大慌てだったのではないか。そんな事あるんだなと思ったが、考えてみれば俺の母は無宗教で葬式をあげなかったし、母個人としては骨はどっか海にでも撒けばいいという意思だったがそれも面倒、もとい、難しかったのでやはり墓に入れる事になってその際に必要だからと戒名をつけられた。あの世で母は苦笑いしたのではないか。どうでもいいが実家と嫁ぎ先とで分骨した、嫁ぎ先には「尻の骨でもやっておけ」と言っていたが尻の骨がわからなくなったので適当にわけた。結局、葬式だの戒名だの墓だの何だのは、全て生き残った人々のためのものなのだ。忘れてしまうから思い出すためであったり、落ち込んでいる気持ちの建て直しであったり。それはつまるところ、「その人との関係の記憶を自分の心の中の墓地のサイズにおさまるようデザインすること」(by 松尾スズキ)なのだろう。冒頭の話を聞いたり、昨日通夜へ行ったりしてそう思った。