不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

アイ・ラヴ・ユー、OK

 『FRANK −フランク−』(監督/レニー・アブラハムソン、出演/マイケル・ファスベンダー/ドーナル・グリーソン/マギー・ギレンホール

 この映画を見て、一晩経ってからフランク・サイドボトムという人がいた事を知った。知らずに見た事がいいのか悪いのかはわからないけど、とりあえず本作はよい作品だった。音楽映画は数あれど、ここまで観客(他者)が不在の音楽映画は珍しいのではないか。この映画では音楽は他者と繋がったり、己の承認欲求のための道具なのではなく、世界と渡り歩くための武器であり、手段であった。
 数字で図られるモンキービジネスの音楽業界をYoutubeの再生回数で示し、Twitterでかろうじての外部との繋がりを見せる。だが、それらには意味がない。2万回再生しようが、50万回再生しようが、結局は鳴らしたい音を鳴らさないのならば、その音楽を俺たちがやる意味はない――という青臭いほどの考えをあっさりと描いてくる寓話・ファンタジーと言っていい内容だけれど、底が抜けていないのは楽曲のレベルがどれも高く、俳優たちによる生演奏(たぶん)のクオリティによるものだろう。画面に初めてフランクが出てきて、マスク内マイクとプラグを繋げて始まる“Ginger Crouton”には驚いた。こんなバンドが本当にいたら音楽業界は、いや、世界は放っておかないと思う。
 音楽でしか世界で生きられない者がいて、音楽では世界で生きられなかった者がいる。言うまでもなく前者はフランク(マイケル・ファスベンダー)たちであり、後者はジョン(ドーナル・グリーンソン)だ。ついにマスクを取って、目線は外しながらも愛されるだけでなく自分から「I love you All」と歌ったフランク、冒頭では目にしたものをとにかく歌にしていたけれど最後には何も言葉を発せずに去っていくジョン。残酷なまでに才能の壁を叩きつける事で(ジョンは観客席にすらいられなかった)描きたかったものは、彼らの狭間にある芸術の美、すなわち傷だらけの誰のもとにも、音楽だけは通路を選ばずに鳴り響くのだという絶対無二の真実だった。
 実は『インサイド・ルーウィン・デーヴィス』も同じ題材の映画だったけれど、彼の場合は過去を抱えていま在り続ける事が幸せなのだろうと苦笑いしながら見ていられるけれど、こちらはより切実で、音楽に限らず何かを目指した者たちに確かに突き刺さってくる。俺のようなオッサン成りたてには殊更響くものがあったな。逆に少年少女だったら、本作を見て何かを感じているようでは駄目だろう。周りの事は気にせずに、とにかく突き進む、まずはそこからなのだから。挫折した時の事は、挫折した時に考えよう。その挫折が、どういうものであれ。
 正直言って、ぎこちなさを感じる拙い作品だったけれど、その拙さすらも愛しく思う、苦くて、甘い映画だった。