不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

欠けているから、あなたを殺す

 不穏で不安定、何かが欠損しているとしか思えず、一体この映画は何を描こうとしているのか、最後まで見えにくく、しかし欠損部分がくっきりしすぎていて不安になるほどだった。ちょいとストーリーの核心にも触れているので、未見の方はご注意を。
 アニマル・キングダムを見た。監督・脚本、デイヴィッド・ミショッド。出演、ジェームズ・フレッシュヴィル、ベン・メンデルソン ジョエル・エドガートンガイ・ピアース

「何をやった?」「ヘロイン」
 事切れた女性の横で救急隊員に問い質され、こともなげにひと言で答えながら視線はテレビで放映されているクイズ番組を追っていた。その後、身寄りを亡くした事を告げる祖母に電話する声も表情も、悲しみに浸っているわけでも途方に暮れるわけでもなく、何も感じるものなどないと言いきっている事がよくわかり、一体このぬぼーッとした少年はなんなのだろうかと不思議に思う。
 犯罪者一家に投げ込まれた少年ジョシュア(ジェームズ・フレッシュヴィル)が主人公なのだが、どこまでも感情が凍っていて、何に対しても抵抗も受容もせず、体験をしないので成長はなく、渦中にもいないのである種の「儀式」を通過する事もない、ただただその場に居続けるだけの様は不条理劇にすら見える。
 彼女であるニコールの死によって、ようやくジョシュアの感情は解凍して波を打ち、それに呼応するかのように肉体が躍動するのだが、それは彼女の死から来る悲哀なのか、殺した相手への憎悪なのか、自らにも迫りくる死の恐怖なのかは、いまいち判別できない。ようやく笑顔を見せるシーンもあったが、そこでそんなほがらかに笑ってしまえる時ではなく、やはりちょっとおかしいのではないかと思った。
 18歳の少年が主人公でありながら青春を駆け抜けるわけでも、閉塞感に押しつぶされるわけでも、内なる衝動を燃やしつくすわけでもない。彼女がいるのに性衝動すらなく、始まりも終わりもただ一点のみにいるだけだった。
 犯罪者一家の物語ということでは近年では『ザ・タウン』や『ウィンターズ・ボーン』を思い出すが、二作にある「最悪な現在を何とか突破しようとする姿」はこの作品には皆無であり、悪事のあとに辿る情けないみじめな悪党の姿を人間関係と周辺から焙り出す。ハードボイルドな映画につきまとうヒロイズムや美学、高貴なる意志、人間の尊厳などは一切ない。
 ジョシュアだけでなく、その他の登場人物からも常に何かが欠損しており、それを何とかすべく権謀術数の限りを尽くすのだが、どうにも中途半端な結果に終わる。映画の最大のテーマは間違いなく「父殺し」になるにも関わらず、最初から最後まで父親は不在のままで、誰もが殺すべき人間を捜しさまよっている。義理であれ実であれ、兄が父親にも成りえたかもしれないが、軽やかに死が飛んできて、消し飛ばされる。そうやって血の惨劇を中途半端に繰り返し、ようやくジョシュアは父殺しを果すのだが、それもやはりエセ父殺しに過ぎなかった。
 母=娘の喪失(欠損)によってお互いを埋め合うような冒頭の抱擁と、お互いがお互いの殺意と悪意をはっきりと感じ取り、見えない銃口をお互いのこめかみや心臓につきつけながら「もう戻れないのだ」という別の欠損を自覚するための結末の抱擁との対比に、結局彼らは常にどこかを欠損させていなければならない存在だと知り、悪党の末路とは悲惨なものだというジョシュア自身の呟きが、抱擁から始まるのが再びの血の惨劇なのか、修羅への道なのか、どちらにせよ待っているのはろくでもないものだろう事がよくわかるのだった。
 演技といえるのかどうかはわからないが、この茫洋とした雰囲気をまとった少年フレッシュヴィルが、この先どこへ行くのか見ておきたい。その他一家の配役の妙もすばらしく、的確。そんな一家に相対しているせいか、刑事レッキ―演じるガイ・ピアースはやや分が悪いように見えた。あんなに背骨がしっかりした演技をしているのに、全く頼りになりそうにない。ピアースは、イーサン・ホークと並ぶ「絶対に失敗する」オーラを持った役者だなぁと、この作品を見て確信した。せんでもいい余計な確信なんだけど。