不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

象が踏んでも世界は

 堀江敏幸『象が踏んでも―回送電車Ⅳ』(中央公論新社を、寝る前にちびちびと読んだ。堀江氏の文章は何も書いてないようで、やっぱり何かがあって、それが何なんだろうと思いつつ、文章の濃淡を味わいながら、いつもじっくり読む。この本には、俺も講義を受けた事があるロシア文学者の追悼文があって、さらに大学内や近辺の話もあったので、より我が事のような、それでいて遠いような、妙な気分になりながら読んだ。
 長文よりも、短めの文章の方が好き。なんだかんだで堀江氏の結構な数の著作を読んでいるが、なかでも散文集の「回送電車」シリーズは装丁ふくめとても好きだ。しかし、どの本を読んでいて読んでいなくて、また持っていて持っていないのか、把握しきれていない。一度整理せねばな。

若者の大多数にとって、異質な他者とは、「私」でもあるだろう未来の「彼」や「彼女」であって、過去の存在ではないからだ。未来の自分こそ、圧倒的な他者として立ち現れるべきであり、それ以外に時を過ごす理由などないのである。考えてみればあたりまえのことを、私は忘れかけていたのだった。そう、他者は未来にいるのだ。予想を超えて近く、しかも遠い時間をくぐり抜けたその先に。
(「時間の先にいる他者」)

写真を見る者は、ああ、たしかにこんなところがむかしあったとつぶやき、しばしなつかしい時間に立ち返る。しかるのちに、この写真家は、あの季節の、あの時間に、あんな場所にいたのか、という証拠写真的な後追いの感覚を味わう。しかもそれは「過去における未来」の暗示であり、「過去における未来」がけっして現在においつかない時間をこちらが過ごしてしまったことに対する驚きになる。悲しみは、そこからやってくるのだ。
(「本質を汲み出す泉」)

象が踏んでも―回送電車〈4〉

象が踏んでも―回送電車〈4〉