不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

透明ボデーにすればいい

 エログロナンセンスは基本的に苦手なジャンルで、優先順位は低くなりがち。本作も見たいと思いつつ、ずっと敬遠していたが、劇場で見なければDVDでレンタルする事はまずないだろう、という見解の一致した友人と、手に手を取ってテアトル新宿へと向かった。
 冷たい熱帯魚を見た。監督・脚本、園子温。脚本、高橋ヨシキ。出演、吹越満、でんでん、黒沢あすか神楽坂恵梶原ひかり

 覚悟しすぎたらしく、前評判通り血しぶきたっぷり、内臓ゴロリとグロ満載ではあったが、意外とあっさり見れて、しかも鑑賞後に焼肉なんぞを喰いに行ってしまった。それとも、自分で思っているよりもグロ耐性があるのだろうか。
 でんでんのキュートなオッサン風味にかぶさる圧倒的な演技は言わずもがな、言及する人は少ないが個人的には吹越満の空疎な演技もかなりよかった(その後の空疎な暴走も)。一方、もう一つの要となる女性陣も、ここというシーンでビシッと裸を見せつける凄みある演技で悪くない。が、もう一枚剥ぐ(または被せる)事ができなかったかな、と思うのは贅沢か。
 でんでん演じる村田は劇中において突如豹変するように見えるけれど、実はずっと地続きに行動し続けて、村田だけは自身の“日常”から外れることがなく、それをずっと見ている我々も、いつの間にやら「普通の感覚」を失って、ニヤニヤしながら村田の凶行を鑑賞し、時には「ウヒヒ」なんて下品な笑い声を洩らしながら、「この血の惨劇が永遠に終わりませんように」などというネジの外れた甘美な思いを抱いて映画を味わう事になる。
 村田は意外と一本筋が通っていて、もちろんそれは狂人のそれで、本来なら通るわけはないのだが、彼は彼の信念と覚悟と勇気を常に持ち合わせているので、「この人、狂ってないんじゃないかな」とすら思ってしまう。すぐそこにいるオッサン、そう感じるからこそ、村田に親近感と恐怖心が同時に沸き、不意に出てくるくだらないギャグに目をそむけるどころか、不謹慎に笑ってしまうのだ。
 しかし、そんな普通のオッサン村田が、終盤デタラメなエディプス・コンプレックス劇の一幕において、エセ父親役に夢中になり過剰に演じ始めてしまう。それは村田が自身の“日常”から初めてはみ出た瞬間であり、その踏み外しがエセ父親殺しを発生させたと言える。
 だから、そこで爆発した社本(吹越満)には、とても親近感は持てない。彼は非日常の狂人と化したからだ。彼の空しい狂気も、虚しい疾走も、ただただ傍観する事しかできず、最後の最後、ボロボロで無様なまま言うセリフも、「この期に及んでもそんなことを言うのかよ」と呆れてしまった。その戯言を一蹴し、嘲笑いする存在がいる事が、逆にこちらをホッとさせるほど。
 希望もなく、とはいえ絶望もない。あるのは憎悪と暴力、狂気と愛。つまるところ、ここで描かれているのは、間違いなく我々が住んでいる世界の一部分、いや断面図であり、しかしその断面図の構造を逐一説明するのではなく、ゴロンとその辺に転がしておくだけなのだ。非日常の猟奇殺人事件で観客は置いてきぼりを喰らうにもかかわらず、どこか共犯者意識が生まれてしまうのは、その世界は俺たちの物に他ならないからである。
 人生の悲哀を描くわけでも、なぜ人がこうなってしまったのかを描くわけでもなく、ただただ見せつける。だから物語に深みは一切なく、むろんそんなものを求めてこの映画を見に来る人は少ないだろうが、逆に俺は覚悟しすぎたせいで、この惨劇のカラッとした風味に満足を覚えられなかった。「もっと先へ行かないの?」と。生ぬるい映画が多い昨今の日本映画界の劇薬となるであろう作品だし、バイオレンス映画には定評のある韓国映画をはじめとした世界の映画界へも、胸を張って送りだせる逸品なのは確かであるが。オススメはしないけど、少しでも興味を持つなら一見の価値はあり。
 ま、こんな事を考えても、村田に「なーに言ってんですか。大丈夫ですよ、私に任せて下さいよー」と肩をバンバン叩かれて、煙に巻かれそうだけどね。