不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

40年前の青春「映画」群像劇

 山田宏一『増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』読了。名著、と言いきっていい。
 1960年代、山田宏一が『カイエ・デュ・シネマ』誌同人として、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の映画人達と交友した思い出を綴っている。
 俺はヌーヴェル・ヴァーグの作品は、ゴダールトリュフォー、そしてジャック・ドゥミのいくつかの作品しか見た事ないし、決して夢中にはならなかった。しかし、この本には夢中になった。読み進めるのが惜しい、と思うのは久方振りである。
 読んでいて、感心したり、頷いたり、うねってしまったり、とにかく心躍る内容だ。

 どんなテーマやストーリーでも、肉体的なイメージに昇華されなければ、映画的なエクスタシーに到達しえないのだ。観念的な主張や抽象的な叫びでは、映画にはならない。逆に言えば、映画は映画にすぎないのだから、映画以外のこと、あるいは映画以上のことをやっても――それがどんなに芸術的に野心的で意欲的であろうとも――映画的にはならないのである。

 もしヌーヴェル・ヴァーグ作品を一つでも見た事があるのなら、映画が好きなら、自分で何かを表現したいのならば、この本を読んだ方がいい。いや、読むべきだ。この本の中には、映画を愛し、映画と生き、映画を生きている、野心と情熱を抱く芸術家しか出てこない。
 そして、ヌーヴェル・ヴァーグの遺したものが、読んだ者の心をわしづかみにする。

 そしてその*1映画的キャリアの成功に象徴されるヌーヴェル・ヴァーグの真の――おそらく唯一の――遺産は、映画を愛する心さえあれば、だれでも映画を作ることができるという可能性を示し、その現実的な状況を生み出したことであった。

 本書がすばらしいのは、ただの映画研究書、歴史書ではない事だ。巧みな構成と編集によって、「映画的」な構造になっていて、分厚いにも関わらず、ぐいぐい読み進む事ができる。
 何より、この本は、一人の異国の青年と、「新しい波」を起こしている奴らとの青春群像劇なのだ。魅力的な映画人達との様々な交流、エピソードがふんだんに盛り込まれている。たとえば第九章「トゥールの旅」の終盤、ジャン=ピエール・レオー、ジャン=アンドレ・フィエスキとのやり取り。フェスで上映された日本映画を撮ったのが山田宏一自身だった事を、ギリギリまで隠していた話なんか、読んでいてニヤニヤしてしまうほど「映画的」で、青春だ。
 そして、青春群像劇には必ず「別れ」がある。
 1968年5月。
 この月について書かれた山田宏一の筆は、強い淋しさを帯びている。
 だけど、「別れ」たのは山田宏一だけではなかった。
 ヌーヴェル・ヴァーグも、「別れ」ていってしまったのだ。
 本書は話の特集社→新版→ちくま文庫平凡社ライブラリーと4度出版されている。その平凡社ライブラリー版も、現在品切れ状態で、amazonマーケットプレイスでは結構な高値になっている(俺は図書館で借りて読んだ)。間違いなく古典的名著だから、品切れ状態にするのはもったいなさすぎる。是非とも重版、または新たに出していただきたい。