不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

蝶が飛んでいる


 潜水服は蝶の夢を見る鑑賞。監督はジュリアン・シュナーベル。原作、ジャン=ドミニック・ボビー。出演、マチュー・アマルリックエマニュエル・セニエマリ=ジョゼ・クローズアンヌ・コンシニパトリック・シェネジャン=ピエール・カッセル 、マリナ・ハンズ、マックス・フォン・シドー
 パリのファッション誌『ELLE』の編集長ジョン・ドミニク。43歳の彼は、勝手気ままやりたい放題、一流の食事、美しい女性、セレブに囲まれた仕事……夢のような生活を満喫していた。ところが、ある日、脳内出血により左眼と聴覚以外の全てが麻痺してしまう。
 絶望の中にいるジョン。そんな彼に、美しき言語療法士がある言語伝達方法を発明した。アルファベットを読み上げ、使いたい文字が来たらウィンクをする。
 この方法で、ジョンは自伝『潜水服は蝶の夢を見る』を書いた。全部で20万字ある本だった。
 確か手塚治虫の「ブラックジャック」に、同じ様な話があった。大会社の社長が植物人間になるのだが、意識はしっかりしている。意志の伝達手段は、瞬きではなく呼吸音を使っていた。日本語は50音あるので、大変だろうな。
 「潜水服」とは、動けない自分自身の状況。「蝶の夢」とは、身体とは逆に自由な想像の世界。
 まずジョン・ドミニクに、もとい、ジョン・ドミニクの「左眼」になりきったカメラワークがすばらしい。よくぞここまで表現できたものだ。
 そこに、ジョンのモノローグが入っていく。すぐ近くにいる人間とのすれ違い、焦燥、苛立ち、彼が思い感じ考えている事がこちらに伝わってきて、これらも全て瞬きによって文字になっていると思うと、胸迫るものがある。
 これだけの内容だったら、お涙頂戴、大感動映画かと思われるが、そんな事はない。感傷的にはならないし、感動を押し付ける事もない。それはひとえに、ジョンの皮肉屋でウィットに富んだ性格からだろう。絶望的で深刻な状況にもかかわらず、誰よりもユーモアに溢れていた。父と子の電話シーンなんか、涙なしでは見られないはずなのに、客席から笑い声が漏れていた。左眼しか動かないのに、女性をちゃんとチェックして胸や足を見ているなんて、さすがフランス人と笑える。
 この映画は「生きるってすばらしい」「人生は美しい」というテーマに思われがちだが、ちょっと違う。むしろ、「人生は残酷で辛い」とはっきり言っている。だってそうだろう。左眼と聴覚しか残されていなくても生きなければいけないんだ。どう考えても辛い。
 だけど、ジョンは《もう自分を憐れむのをやめ》て本を書いた。死にたいわけではないが、生きたいわけではない。そんな安易な生の肯定なんか、クソみたいなものだ。
 「潜水服」を着ながら見た「蝶の夢」。残酷な時間の先にある、美しい一瞬。
 周りの人間を殆ど描かず、食事や排便などの描写もない。あくまでも、ジョン・ドミニクという一人の男だけを描いている。*1
 彼がこの本を書き終わった後で何を見て、何を思ったのか。それが一番気になったが、それは本人だけの秘密の夢だろう。
 最後に、どうでもいいんだけど、マチュー・アマルリックって中村達也に似てるね。

*1:感覚がないから、食事も排便もわかっていないから描いていないのだろう。