不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

円木に惚れ込む

 辻原登『遊動亭円木』読了。HZさんオススメ。
 主人公は遊動亭円木、落語家だ。二つ目で、そのうち真打ちというところで、不養生がたたり、遺伝の糖尿病も悪化。白内障が進み、盲になってしまった。今では頼まれて噺をするくらいで、妹夫婦の管理しているマンションで気ままに暮らしている。
 円木がいい。盲になり、高座をすっぽかし師匠からも見放される。それでも自暴自棄にならずに、時々落語をやり、周りからのバックアップもあるのに、高座に戻る気にならない。飄々としていそうで、どこか割り切れない物を持っている。この人のやる落語ってどんなものだろう、と聴いてみたくなる。
 設定から当初、円木はうだつの上がらない男をイメージしたが、読んでいくとなかなかの男前らしい。痩せているので、芥川龍之介を思い浮かべた。ちょっと暗すぎるかもしれないけど。
 勿論、これはフィクションであり遊動亭円木なんて噺家はいないのだが、志ん朝の語り口を真似たり、桂文楽が登場人物の名前を思い出せず「勉強しなおしてきます」と言って高座を降り、そのまま引退したというエピソードが出てきたりして、その影響でこの東京のどこかに円木がいるんじゃないかという錯覚が生まれた。
 落語の噺が出てくるのは当然にしても、他にもジャコメッティ、モネの「睡蓮」、チェーホフ塙保己一イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』、果てはアリストテレスまで、様々な話が散りばめられている。それらが、よくあるトリビア押し付けではなく、ちゃんとスパイスになっている。
 笑える話あり、幻想的な話あり、艶っぽい話あり……しかし、江戸っ子人情話と簡単には言えない。底の方に冷たいものがあり、何も考えずぐいぐいと読み進んでいくと、不意に背筋にすっと冷水をひと筋流される。物語と、ひいては円木と読者はつかず離れずの距離でい続ける。
 金魚に、水に、川の流れに、飛行機に、落語に、目暗。夢か現か、光か陰か。現実と幻想と落語が混ざりながら、物語は進む。

 円木は、地上にいるとき、ものやひとの動くのを、あおみどろの水を通してみていた。濁った水晶体の比喩としてつかわせてもらった水の中に、いまほんとうにこの生身を投げ込んでみると、なんだかとても自由になったような気がした。息がちっとも苦しくないのもふしぎだ。
 三匹のコメットがひょいととびだして、すいと泳ぎ去った。
 もうそろそろ底につくだろう。

 話も文体も、新鮮だった。面白い、大満足。読後感が抜群に良かった。また読もう。この話には続きがあり(『約束よ』内収録)、そこで円木は真打ちになっているそうだ。是非読んでみたい。

遊動亭円木 (文春文庫)

遊動亭円木 (文春文庫)