不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

勝利と愛と至福、最後の雄姿を目に焼き付けろ


 ロッキー・ザ・ファイナルを見る。新宿歌舞伎町の映画館は300席ほどで小さい。きっとこの映画はガラガラだろうなと思っていたが、満員で立ち見もいた。客層は老若男女様々だ。
 『パイレーツ・オブ・カリピアン』だの『ゾディアック』だの、最新のCGや特殊効果を使ってド派手な映画の予告がある。続いて始まった『ロッキー』は金もかかっていない、手も込んでいない映画だった。
 主演は勿論、監督も脚本もつとめたのはシルベスター・スタローン。ポーリー役のバート・ヤング、トニー・バートンとおなじみのメンツも出ている。本人役でマイク・タイソンが出てきたのは笑った。
 かつて栄光の中にいたボクシングヘビー級チャンピオンは、今は町の片隅にある小さなレストランを経営している。自分で料理素材を買い、ジャケットを着て客のテーブルに行き接待をする。例えば過去の試合の話を。喜びながら聞く客、もう何度も聞いているという顔をする客、過去にすがっていると哀れみの目をする客と、反応は様々。でも、ロッキーは続ける。今の立場を自覚している。元世界チャンピオンでも驕らず、でも卑下しない。優しさとユーモアを持ちながら日々を過ごしている。
 ロッキーは表向き静かに世界と折り合いをつけて生きている。だけど、この静かさはどこか落ち着かない。ロッキーの心の中には、まだ残っているものがあった。 
 ロッキーの回りからいろいろなものが消えていった。最愛のエイドリアンはいない。ミッキーもいない。アポロもいない。
 残ったやつらもいる。愛すべきポーリー、かつて会った不良娘、その息子、偉大な父の影のせいにして逃げ続けているロッキーJr、新しい愛犬。
 そしてボクシングへの情熱。
 彼は挑戦を決意する。誰もが無謀だと言う。誰もがやめておけと言う。だけど、ロッキーはやる。
 誰もが妥協して、仕方ないと思っている。自分に正直でありたいと思いながら小さな嘘をつき毎日を生きている。それを否定する気はさらさらない。みんなそうだ。だけど、やっぱりどこかで、正直に、真摯に、大切な何かのためにまっすぐに走る、そんな事を夢見ている。
 ロッキーは言い訳をせず、妥協せず、ださくても笑われても、野暮ったくてもかっこ悪くても、愚直に前へ前へ、つんのめってしまうくらい前へ行こうとする。そんな姿に人は惹かれる。
 スタローンが「ロッキー」を作ると聞いて、誰もが「いまさら……」と思った事だろう。そう、「いまさら」なのだ。だけどスタローンは「ロッキー」を作る。CGも特殊効果も、美男も美女も出てこない。古臭くて熱苦しくて説教くさくて滑稽な映画だ。だけど、みんな見に来るんだ。
 ロッキーも「いまさら」試合をする。だけど、気付けばみんな応援するんだ。スタローンは相変わらずイタリア訛りの英語を喋り、ポーリーは相変わらず悪態をつきながら最高のセリフを口にする。だけど、懐メロなんかじゃない、現在形でロッキーは生きている。
 トレーニング風景はいつかの風景。灰色の上下スウェットを着て、生卵を飲み、生肉サンドバッグを叩き、フィラデルフィア美術館までのランニング、腕を振り上げるロッキー。もうそれだけで胸がいっぱいだ。
 クライマックスは試合だ。やたらロッキーびいきの演出には笑ってしまったが、それでいい。ビルドアップしながら、やはり衰えを隠せない身体が逆にすばらしい。*1全盛期を彷彿とさせる拳闘。フラッシュバックする過去。総立ちになる客席。こんな手に汗握る映画は久し振りだ。俺は映画内の客と同じ様に、心の中で「ロッキー」コールをする。
 この試合は、ロッキーの、ロッキーのための試合だ。名声のためでも、栄光のためでもない。ましてや勝つためでもない。「ただボクシングがしたいんだ!」。情熱の残骸を燃やし尽くすための試合だ。入場し、コーナーに立つロッキーの顔が笑顔だった。ボクシングができる事が嬉しくてたまらないんだろうな、と思った。
 激闘の果てに、残骸は燃やし尽くされた。
 退場してゆくロッキーと、名もないファンの手が結ばれる。くさくて陳腐なシーンにたまらなく感動した。
 『1』から30年、『5』から15年、まさか帰ってくるとは思わなかった。
 「ROCKY BALBOA」*2、最後の姿。アンタ、最高だったよ。有り難う、ばいばい。

*1:スタローンはもう61歳、それであの身体は驚異的!

*2:原題