不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

思想の“疾走”

 沢木耕太郎は読まない作家だ。しかし前述した様に、故あって『かつて白い海で戦った』を読んだ。好き嫌いは変わらずだが、この作品はちゃんと読めて、それなりに面白かった。そこで思い切って『1960』も読んでみた。
 何故、次に選んだのが『1960』だったのかと言うと、これには「テロルの決算」が収録されているからだ。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した作品で、山口ニ矢による浅沼稲次郎刺殺事件*1の話だ。「テロルの決算」は興味あったけど、書いているのが沢木耕太郎だからなぁ、というジレンマがあり、ずっと未読だった。『白い海』を読みきった勢いで、前半の「危機の宰相」を飛ばし「テロルの決算」だけ一気に読んだ。
 浅沼稲次郎刺殺事件は「事件」そのものにはそれほど興味はない。刺殺の瞬間を捉えた「写真」に興味があるのだ。毎日新聞の長尾靖が、カメラに残った最後の一枚で撮り、日本人初のピューリッツァー賞を受けたあの写真だ。この一枚は一体どういう状況のどういう瞬間なのか。この一枚に凝縮されたものは何なのか。それがずっと気になっていた。知らない人は検索すれば出てくるよ。
 文体も中身も堅いし読み難い。なかなか世界に入り込めなかった。しかし、事件が起きた1960年10月12日の描写はスリリング。久々にぞくぞくしながらページをめくった。浅沼稲次郎山口二矢、そして長尾靖が如何にして日比谷公会堂に集まったのか。様々な偶然が重なり、三者はあの瞬間へ向かっていく。刺殺の瞬間、「嗚呼ッ」と思わず呟いた。
 あの事件は浅沼の上辺しか見ていなかった右翼少年・山口二矢の“暴走”に過ぎない。思想の“暴走”である、と同時に思想の“疾走”でもあった。右翼・左翼に限らず、思想というものが限りなく純粋であり、また無垢であり、だからこそ凶暴だった時代を最も強く表面化した事件。翻って現代はどうなのか。昨今の靖国論争や自衛・防衛論争、戦争に対する考え方、生き方。騒がれている事は沢山あるけど、それらを語っている人間の思想は決して純粋ではないと思う。不純であり、濁っている。“濁り”という表現は悪く聞こえるが、要は“大人になった”という事だろう。非常に陳腐な言い方だけど。だから昔の様に乱闘騒ぎも、デモも、襲撃事件もなくなっていったのだと思う。誤解して欲しくないが、決して昔が良かったと言うつもりはない。純粋であったとはいえ、暴力は絶対に是ではないし(それでも暴力が出てきてしまう事があるという現実もわかっているけど)、“大人になる”事は必然。懐古主義は御免である。ただ、あの時代、何とか世界を変えようとしていた純粋な人間たちの交錯があり、それは美しくも切なかった。
 事件の舞台、日比谷公会堂での演説会は生放送されていて、先日、偶然、発見した。*2映像は臨場感があったけど、写真ほど力は無かった。あるのは混乱だけだった。
 あの一枚ほど、決定的“一瞬”を切り取った写真を、俺は知らない。

1960 沢木耕太郎ノンフィクション7

1960 沢木耕太郎ノンフィクション7

*1:詳細はコチラを。

*2:リンクを貼ろうかと思ったが、死者の冒涜になる気がしてやめた。写真はいいけど映像は冒涜、という自分の思考もよくわからない。