70歳過ぎの人が亡くなった時、その訃報に驚きこそすれ、やたらショックを受けたり寂しくなったりする事はほとんどない、その歳なのだ、「お疲れ様でした」と言って見送るようにしている、しているのに、今日70歳の大病を患ったガンの人が亡くなったのを知って、ショックを受けた、いまも受けている。
橋本治がどんな偉業を残しているかは列記するまでもないであろう。あえて中で俺が特筆したいのは、『巡礼』『橋』『リア家の人々』のいわゆる戦後三部作だ、初めて読んだ時には圧倒されて、たじろくほどだった、傑作だと思った。検索したら俺の動揺した感動が出てくるかと思うので、お手数ですがそちらをどうぞ。
もう一つは、『広告批評』で連載されていた「ああでもなくこうでもなく」で、この時事評論で書かれていた事が全て正しいとも、俺と同じ考えだとも思わない、そうではなくて特別な知識、思想はなくとも、平易な言葉しか使わなくとも、ひたすら自分の頭で考える事、考え続ける事、それを教えてくれた。
今や現実はグルグル回りをしている。そのつもりもなかったが、いつの間にかこの本も、「もう一度初めに戻る」という構造になってしまった。この本の初めは、「やっぱり、世の中はおかしいんじゃないの?」と言って、「選択肢が一つしかない教育」の、その方向のなさを問題にしている。でもグルグル回りが悪いわけでもない。なんだかよく分からなくなったら、もう一度「グルグル回り」の中に戻って、「グルグル回りになっている構造」を確認すればいい。それが「グルグル回りから抜け出す唯一の方法」だと思う。
(「ああでもなくこうでもなく」最終回より)
その後で別の本でこうも書いている。
そんな人間なので、『ああでもなくこうでもなく』を書く私は、「そんな気がするけど、あとはよく知らない」の無責任さを一貫させてもいます。…「世の中のことは、みんなのこと」で、私も「世の中の一人」で、それは重々理解してんだから、あとは自由でもいいじゃないかということだけです。そうそう「まともなこと」ばっかり求められても、「そんなの無理だよ」としか言えません。そういうわけで、たいしたことも言わず、ただ「終わり」です。
(『明日は昨日の風が吹く』前書きより)
であるからして、橋本治論をそのうち誰かが書くのは別に構わないのだけれど、今後橋本治を使ってああだこうだ社会や世の中について書くのは、それはそれで何だか違う気がするのだ。つまり、俺も「世の中の一人」であると理解したら、《あとは自由でもいいんじゃないか》という事を大事にしていきたい、グルグル回ってしまいがちな俺は、橋本治から学んだ事を踏まえて、自由に、ああでもなくこうでもなくと考えていこうと思う。とりあえず何冊か、読み直そうかな。