不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

友情と信仰

 今日、こういうツイートを見かけて*1、呟きの本筋からはずれるんだけど思い出した事があったので、記憶が曖昧ながらつらつら書いてみる。
 母の友人にOさんという人がいた。確か姉のクラスメイトの母親で、母とはわりと仲が良かったと記憶している。俺はあまり付き合いはなかったけれど、名前と顔くらいは覚えていて、たまに話をした事もあった。
 Oさんは某新興宗教の信者だった。だからといって付き合いに何の支障もなかった。成人になってから選挙が近い時に電話を取り次いだ際、「もし入れる党がなかったら、入れてくれないかな」と勧められた事があったくらいで、まぁそれも押し付ける感じではなかったし、いなすくらいの社交性はあったので問題なかった。
 母のガンの発覚後、しばらくしてからOさんがお見舞いに来てくれた。俺はその場におらず、確かあとで母か姉から話を聞いたはず。何の話だったかというと――。
 母は無宗教だったが(無神論ではない。多神論ではあった)、宗教や信仰を嫌ってはおらず、その人の意思を尊重していた。だからOさんとも長く付き合う事ができたのだろう。であるが故にOさんは悩んだ。つまり、自分は信仰を持っていて、これはすばらしいものだから母にも勧めたい。しかし母の人となりや考えは知っている。きっと断るだろう。それはわかっている。だけど、自分がいいと信じているものが目の前にあるのに、苦しんている人に教えないのか、それでいいのか……。
 悩みながらもOさんは母に信仰の話をした。断っても拒絶してもいいから、話だけは聞いてくれと言って。母は、もちろんその宗教に入る事はなかったが、その時Oさんの話を全部しっかりと聞いた。どう返答したのかは知らない。
 そのあとも母は特に不快な感情を見せなかったはずだ。まぁ内心どうだったのかはもう知る由もないのだが、Oさんが友情と信仰の狭間で苦しんでいた事は確かだ。結果、信仰を勧めたわけだが、それは友情を捨てたわけではなく、友情があるからこその選択だった。病気発覚からしばらく経ってから話をしに来たのは、そのせいだと思う。まぁこれも勝手な憶測なのだが。
 俺はまだ特定の宗教を持っていないのだが、信仰というものを考える時、Oさんの事を思い出す。信仰を持っているが故に苦しんだ事、信仰を持っているからこそ救いたいと思った事、どちらも決して嘘ではなかったはずだ。
 何が言いたいのか、自分でもわからなくなってきた。ただ、Oさんとはもう連絡を取ることはできないし、たぶん話す事もないのだろうけど、もし仮に会う機会があったら、「あの時、母に話をしてくれて有難う」と言いたいと思った。Oさんの善意と、母への友情と誠意に対しての礼だ。厄介だけれど、その純粋な気持ちへ。

*1:非公開になってしまったようだが。