不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ギターで舵を切れ/君が生きた証


 音楽(芸術作品)はいつでもどこでも常に同じままで、聞く(受け取る)側の変化によってその意味や聞き方が違っていくという本質を捉えた、孤独な魂のための一作。観客の思い込みが中盤でガラリと変わった時にその視点や感情の変化は何なのかと問われている気がした。
 亡くなった息子ジョシュの残した音楽によって父サム(ビリー・クラダップ)が救済される、というよりむしろ父は息子の音楽で現実をシャットアウトしており、たとえば移動中でも仕事中でもイヤホンで音楽を聞いて外部の声は聞こえておらず、音楽関連の話の時だけは耳を傾ける。時に「俺は考えたくないんだ!」と叫ぶほど。自由人のような生活をしているのも、現実を避けるための隠れ蓑だ。
 あの時あのタイミングで電話をかけ、すれ違わずに会話をしたのに息子の歩みを止める事はできなかった――存在を否定されたも同然のサムにとって、ジョシュの音楽を奏でる事は息子が歩めなかった、あるいは歩まなかった道を代わりに歩く事で、それでしか自分の存在を確かめようがなかったのだと思う。故に、サムとクエンティン(アントン・イェルチン)との間に疑似父子関係があってもおかしくないのにそうならないのは、サムは父になりたいわけではなく息子をトレースしたかったからであり、友人関係だったからこそバンドがうまく機能したのだろう。
 どれだけうまくいき、多幸感に包まれようがいずれ破綻する事は目に見えている。観客だけでなくサムもそれを感じていただろう。結局は破綻を、さらに言うのなら自らの不幸や喪失を受け入れるしかなく、そこからようやく再生できた者が星空を見上げるようなラストは息を飲むほど美しく透明なものだった。
 主役二人を演じたビリー・クラダップアントン・イェルチンは、演技も演奏も、そこに潜む希望とメランコリーを見事に表現しており、二人のコンビネーションは活き活きとしていた。監督のウィリアム・H・メイシーは処女作とは思えない、自らのしなやかな演技と同様の演出で、誰もがみな複雑な状況の中にいる事をさりげなく描く手腕は秀逸なものだった。安易に誰かを救おうというものではなく、あくまで寄り添うというスタンスなのもすばらしかった。
 冒頭書いたように、音楽は変わらず通路を選ばずに届く。「家に帰りたい」と誰が、いつ歌うかで全く響きが違っていて、だからこそ「いま、その歌を歌う」の重さがよくわかる。歌と同じように映画のタイトルも、邦題はベタな感じで嫌だなと思っていたのに、見終わってみれば全く違う意味合いに見えて、なるほど、いいんじゃないかと思えてきた。現金なものだけど。