不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

十年の今昔

 今日は母の命日で、亡くなってからちょうど丸10年だ。こういう場に書く事ではないのかもしれないが、言葉にしておきたく、書き散らしてみる。
 母の癌が発覚したのは、俺の大学卒業前後だった。前か後かは定かではないが、とにかく公私共に生活が激変した。それから一年と三ヵ月ほどで母は亡くなったのだが、その間の事はあまり覚えていない。いや、正確に言うのなら思い出そうとしてもうまく映像が浮かんでこず、しかしひょんな時に鮮明に甦ってくる。
 母が自分が癌とわかってすぐにやった事は、(公的なものではないが)遺言状を認め、「葬式はやらなくていい」と葬儀会社を見つけ相談し、遺体に着せる服と遺影、骨壺を包む風呂敷を指定した。亡くなってから一カ月後にできれば好きだった帝国ホテルで簡単なお別れ会をやり(やった)、一年くらいは骨をそばに置いておいてくれ(置いた)、と俺たち姉弟に頼んだ。骨は嫁ぎ先と実家とで分骨した。
 自分の母親に言うのも変な話だが、なかなかおもしろい人だった。芸術に造詣が深く、絵の才能があった。美大に行く事も考えていた、と後で知った。その絵の才能が息子に微塵も受け継がれていないのは謎である。それはともかく、いまでも姉や友人から話を聞いて「あの人、そんなことまで知っていたのか」と驚く事が多い。それなりに経験を経た今の歳なら、もっとおもしろい話ができたと思う。
 母の教えはいくつもあるが、中でも強く覚えているのは「形あるものはいつか壊れる」「何事にも依存をするな」「物事は多面的に見ろ」、そして「本など芸術には金を惜しむな」だった。道楽の気質も持ち合わせているようで、死後に服などを整理する際には、あまりに物が多くて閉口したものだ。
 そして、母は強い人だった。闘病中、その時その時で痛かったり苦しかったりは言葉にしていたが、しかしそれ以外の泣き言を一切言わなかった。病気になった自分を憐れんだり、落ち込んだりする事はなく、ただ一言「悔しいな」と呟いただけだった。治療がどん詰まりになった時でも弱音を吐かず、闘病を続けながら、趣味を、食事を、生活を楽しもうとしていた。
 だから、俺からは何も言わなかったし、言えなかった。「いまの状況が終わる時は、母が死んだ時だ」と気づいた時には心がボッキボキに折れたけれど。
 亡くなってから数年後に、夢を見た。夢に出てきた母はすでに病気で、俺は涙を流しながら母に「死なないで」と口にした。それを夢で言ったのは、どういう意味があったのかはよくわからない。別にスッキリしたわけでもないし、あの時言わなかった事を後悔しているわけでもない。夢の母は、穏やかに笑っていた。おそらく実際に言っても同じ顔をしただろう。
 いまはさすがに気落ちや混乱はないけれど、やっぱりふと「会いたい」と思う時はあるし、どこかにいるんじゃないかと錯覚する事もある。そんな俺の姿を見て、母はどう思うだろう。しっかりしろと怒るだろうか、情けないねとため息をつくだろうか、やっぱり穏やかに笑うだろうか。たぶん全部だ。
 母が亡くなって、後悔しかしなかった。あれもやりたかった、これもやってあげたかった――キリのない事をずっと思っていた。たぶんそれはこれからも変わらないだろう。俺たち生き残った者は後悔と、去っていった人たちの未練を抱えながら、前に行くしかない。そうやって受け継いでいくしかないのだ。
 母と共に過ごした時間、たった23年とちょっとだったけど、充実して、楽しい時間だった。それが終わってしまい、とても淋しい。いまでも淋しい。
 だけど、こうやって未練や淋しさをはっきり言葉にして受け止められるのだから、きっとそれらはもう俺の血肉になっているのだろう。
 だから、魂がどこにあるのか――その辺か、あの世か、転生したか――は知らないけど、俺は大丈夫だよ、楽しくやっているよ、と伝えたい。
 でも、今日くらいはちょっと泣く事を許してね。