不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

どこにもない、ここではない、そこにあるどこかへ

 ソフィア・コッポラは、実は苦手な監督なのだが、なぜか本作は予告を見て気になっていた。こういう時の俺の勘は基本的に当たらないのだが、これは当たりだった。
 『SOMEWHERE』を見た。監督・脚本・製作、ソフィア・コッポラ。出演、スティーヴン・ドーフエル・ファニング

 オープニングで猛スピードで同じ場所をぐるぐる走りまわる車は、クロージングで円から抜け出し颯爽と走り出す。どこへ。どこかへ。居心地が悪ければ、そこから出ればいい。だけど、それなりの生活があるから惰性でなかなか動けない。それでも空っぽの自分に気づいたのなら、まずはちょっとだけアクセルを踏み込めばいい。それからの事は、そのとき考えよう。
 そんなもん、とっとと気づけよ、とは思いつつ。
 人気映画俳優の父の「居心地の悪さ」と、娘との関係と、愛しい存在と一緒にいる美しい時間を描いた作品。むろん、監督自身と父親であるフランシス・フォード・ コッポラとの関係を示唆している。金持ちの道楽娘がセレブな生活を描いており、それを「けっ、金持ちめ」「いい気なものだ」と冷ややかに見るのはたやすいが、俺個人としては嫌みはあまり感じられず、どちらかといえば監督はそういった浮世離れした感覚を冷めた視線で見つめているように思えた。逆に、彼女に市井の人々の生活を描かれた方が困る。
 前述したように、「居心地の悪さ」が中心軸で、それは主人公ジョニー・マルコ演じるスティーブン・ドーフが倦怠感や空虚さを演技でうまく醸し出しているのだが、それ以上に、こちらがやきもきするほど長いカットで表現しているのがおもしろい。オープニングシーンからそうだし、特殊メイクを施すシーンでも、見ている者が「ちょっと長くないか?」と居心地が悪くなるように仕向けている。事件などは起きず、ドラマティックな展開にはならないので退屈に思える人が多いと思うが、その退屈ささえも、「居心地の悪さ」に含まれているのだ。いや、退屈であるのは確かなんだけど。
 はっきり書いてしまえば、たいして深くもないし、いい感じの雰囲気映画だ。脚本も単純だし、練りも足りないので映画がドライブする事もなく、基本的に淡々とした間や空気で作られていて、浮遊感があり言葉にしにくい。穏やかな空気の映像に入ってくる音楽がにくくて、選曲も流すタイミングもセンス抜群。サントラが欲しかったけど、Foo FightersからT-Rex、Police、そしてThe Strokesといったかなりメンツなので版権関連から発売は難しいのかも。
 スティーブン・ドーフはちょっと貧相だったけど、チャーミングさもありながら空虚な男をうまく演じていた。娘とのやり取りは、本当に楽しそう。そして、やはりやはりエル・ファニングがキュートすぎて、オジサン参ってしまった。11歳だか12歳だか知らないが、少女の持つもっとも眩い瞬間がここにあり、彼女はこれからいい俳優になるだろうが、本作で見せる輝きははたぶんもうないような気もする(『レオン』のナタリー・ポートマンのように)。
 ぼんやりと見る美女二人のポールダンスと、娘の不器用ながら美しいアイススケートを滑る姿との対比が見事で、父は居心地のいい場所や美しい時間を初めて掴む。そうして始まった父娘のシーンは、全てがほほえましく、輝いている。
 愛しい存在=家族と過ごす、平凡な時間の美しさ。艶やかな生活をしているからこそ、対比となる日常風景に潜む安堵。感情が溢れる事はなく、なんとなくゲームをし、食事をし、泳いで、日向ぼっこをして、なんとなく日常を過す。そうして、ゆっくりゆっくりと、再生していく。そして娘の感情が決壊する一瞬によって父は踏み出す事を決意するわけだが、このシーンだけ妙に浮いてしまっていたのが、ちょっと残念。
 父も娘も内面には踏み込まないし、中年男がようやくモラトリアムを終えたようなうざったい内容なので、この映画を批判する人がいてもおかしくないと思うし、その批判におそらく俺は反論はしない。しかし、ここで描かれている「居心地の悪さ」は俺も知っていて、だからこそどうしようもなく愛おしく思ってしまうのだった。たぶんDVDを買う。そして、見ないかも。