不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

美しき異世界

 小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んだ。チェスをめぐる美しく、繊細な物語。触れたら壊れそうなファンタジーなのだが、俺はこの物語と世界に決定的な違和感を抱いた。何と言えばいいのか、確かにそれらは美しいのだが、その美しさは「美しいものだけ」を集めて構築された美しさであり、血も肉もない虚像に読めたのだ。
 もう少し突き詰めて考えると、チェスに対する解釈の違いかもしれない。小川洋子的解釈は「チェス=芸術」なのである。音楽や絵画と同じで、芸術だからこそファンタジーとなる。本当はどうか知らないが、小川洋子はチェスを知ってはいても、やった事はほとんどないと思う。わからない、と言ってもいい。数学もそうかもしれない。だから、こうして幻想的な物語にできたのだ。*1
 俺はそれほどチェスに詳しくないが、チェスがどんなに優雅で、盤の上で動く駒がどんなに美しい軌跡を描いたとしても、それが対決をする「ゲーム」である以上、根底にあるのは「勝負」だと思う。勝ち負けが全てではない、というのは「勝ち」「負け」という一つの結果が全てではないという意味であり、「勝ち」「負け」にはそれぞれ確かな意味があるはずだ。
 この「勝負」の意識が、この物語からは欠落している。あくまでもコミュニケーションツールなのだ。戦う時は、それぞれが何かを賭けて戦うはずだ。誇りか、意地か、メンツか、欲望か。お互いが何かを背負い、ぶつかり、全力を尽くし、それぞれ違った意味の「勝利」を目指す。その火花や、言葉を交わさずとも戦う事で通じあう瞬間、これらが美しいのではないのだろうか。しかし、この物語の世界ではチェスをする事、それだけが重要な意味を為しており、勝利にも敗北にも、何の甘みも苦さも味もない。戦う以上、勝利を目指さないならば、その者は戦う資格はない。その場にいる資格はないはずだ。
 チェス、ゲーム、勝負というものに対する根本的で、決定的な違い。見てる世界、住んでいる世界が違いすぎる。そして、俺はその世界に行く事も、受け入れる事も絶対にできないだろう。そういう意味では、貴重な読書体験をしたのかもしれない。

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

*1:そもそも、俺は血も肉もない芸術なんて、芸術じゃないと思うが。