『ノーカントリー』鑑賞。監督・製作・脚本はジョエルとイーサンのコーエン兄弟。 出演、トミー・リー・ジョーンズ、ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン。原作はコーマック・マッカーシー。
ハビエル・バルデム演ずる殺し屋シガーが凄い。狂人を演ずるなら、眼がイッチャッているとか、挙動不審とか、やたら頭よかったり、意味不明な事ばかり言ったりと、ある“記号”をするものだけど、シガーには一切ない。ふわふわのおかっぱ頭で、ちょっと特殊な武器を使う「マジでヤバイ人」。無駄の無い動きで、殺しまくっていく様を見ていて、久々にゾッとした。これに追われたら泣いてしまうわ。ひょっとしたら、レクター博士を超えたかもしれん。
内容について、考えがまとまっていないのだが、書いてみる。
映画の原題は「No Country for Old Men」、「老いた者のための国ではない」。古き人間達が持っている価値観や法や秩序は、どこへ行ってしまったのか。
一人の殺し屋が、偶然事件に巻き込まれた男を、執拗に狙う。男は逃げる。殺し屋はどこまでも追う。お互い、自分の価値観と、自分のルールの中で生きている。
人間は「死」という大いなる結論に向けて、個々のルールのみ従って生きていく。それは、いざ描かれていると、凄まじく寒気がする世界だった。
価値観が多様化したというのは、よく言われている事なのだが、この作品では、我々がどこか“共通認識”として持っていた価値観さえも壊している。「因果応報」「正義が勝つ」「裁きは下る」……そういった“因果律”、さらに言えば“神”さえも葬り去った。
中条省平は産経新聞のコラムで《『血と暴力の国』にはその洞察(弱いからこそ銃を持つ事)が見られるが、「ノーカントリー」には何もない。淵源にある恐怖を忘れ、娯楽として暴力を消費するだけなのである》と書いていた。俺は原作を読んでいないから比較はできないのだが、映画が「暴力を消費しただけ」には見えなかった。
もし、そう見えたのならば「淵源にある恐怖を持たない暴力が、そこにある」事、つまり「(新しい)暴力の存在」が刻まれているからじゃないだろうか。*1
冒頭、老保安官は新聞を眺めながら、ため息まじりに言う。
「この国はどうなっているんだ。
女の子を殺した14歳の少年を逮捕したことがある。新聞は激情犯罪と書いたけれど、その少年は感情なんか何もなかったと俺に言った。地獄にいくのも分かっているとも言った。これをどう考えていいのやら俺にはわからん」
「老いた者のための国ではない」=「血と暴力の国」(原作タイトル)はアメリカに限った事ではなく、世界中の国の事であり、ここで描かれた価値観の崩壊や、闇は、世界の闇なのだ。
老保安官が最後に語る夢の話も、もはや我々は闇を歩くしかないと思わせる内容だった。だけど、微かに光が見えた。それだけが、こちらをホッとさせた。
音楽を一切使わず、沈黙と音だけで作られた作品。可笑しさ、ユーモアを極力おさえて、シリアスに徹した、コーエン兄弟の一つの集大成。