不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

喰っていく


 いのちの食べかた鑑賞。監督・脚本・撮影はニコラウス・ゲイハルター。食物についてのドキュメンタリーである。ナレーションはない、インタビューもない、音楽もない、字幕もない。聞こえてくるのは人間の呼吸音、家畜の声、そして機械音だけ。場面や時間も分断されており、短い映像を脈絡なく繋げていく。そういった演出により、押し付ける事なく“現場”をあぶり出し、観客に見せている。
 静かに、しかし主張する事ははっきりと見て取れて、無言で皮肉を込めているのがよくわかる。美しく計算された映像。そこに現れる日常的な食材の、非日常的な現場。無表情で仕事をこなしていく人間達。
 さっき食べたパンがどうやって出来ているか。昨日食べたトンカツはどうやってトンカツになったのか。食卓に食料が届くまでの加工工程はどうなっているのか。魚が切れ身のまま海を泳いでいる子供がいるというのは本当だろうか。
 パンフレットで森達也が、「ステーキを食った事や、フライドチキンを食べた事を思い出すだろう」なんて書いていたけど、終わった後だって、俺は喰いに行く。映画を見たからといって「ステーキを食べる時に牛の姿を思い出しちゃう」なんて輩はちょっとおかしい。
 だってそうじゃないか。この映画を見るまで牛も豚も鶏も見た事ないわけではあるまい。どうやって殺され、どうやって加工されているのか。具体的な方法は知らないまでも、自分が何を喰っているのか知らない人間はいないはずだ。具体的な映像はショッキングではあるけれど、それによってベジタリアンになるなんて、今まで何を考えてきたのか、想像力の欠如の方を嘆いた方がいい。大体、植物の生命に関してはどうでもいいのか?
 一緒に見に行った後輩は、こう言っていた。
「『いただきます』は、料理を作ってくれた人に対してだけでなく、『アナタの命をいただきます』という意味もある」
 我々が無自覚で使っていた言葉、それがどれだけ重いのか。口にしている者がどれだけ重いのか。
 非難するな、同情もするな。やるべき事は自覚だけ。
 だが、俺がこの映画を見て一番苦々しく思ったのは、この映画を見に来る人は、実はここで描かれているような現実現場は既に知っていて、自覚もしているという事だ。そうでなければ、好き好んでこの作品を選択しない。そうでない人は、ごく一部であろう。
 一番見るべき人達は、この映画を選ばない。見ようとしない。思いもしない。いつまでたっても、その溝は埋まらない。映画に限った事ではないが、それが一番哀しく淋しい現実なのだ。
 無表情無機質に作業する人達を見て、何を考えればいいのか。彼らが何を思って、どう考え、作業をし、またそこでメシを喰っているのか。沈黙が雄弁に語っていた。
 そういえば、「人間はウィルスの餌」と言われている。生物は弱肉強食、食物連鎖。いつ食われるんだかね。