不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

言葉がなくなったら、繋がっていられないのか


 『バベル』鑑賞。監督はアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ。出演、ブラッド・ピットケイト・ブランシェットガエル・ガルシア・ベルナル役所広司、そして話題の菊地凛子。こうやって並べると、なかなかのメンツ。
 「バベル」と言えば「バベルの塔」。天にまで届く高い塔を作ろうとした人間達を、神は違う言葉を話させるようにし、結果人間達は混乱し世界各地に散らばっていった。つまり、このタイトルからこの映画は「言語コミュニケーションの断絶」がテーマである事が予想される。日本の高層ビルは、現代のバベルの塔とでも言いたげだ。だったらアメリカの高層ビルの方がバベルの塔っぽいが。
 しかし「言語コミュニケーションの断絶」はあくまで導入部分だけであり、本当のテーマは、バベルの塔を作り神に近づこうとした、「何もかもを支配(操作)できると思い込んでいる人間の傲慢さへのアンチテーゼ」である。
 さらに言うと「キリスト教徒であり聖書を読んでいる(だろう)国民=アメリカ人はこの『バベルの塔』の話なんか忘れてしまっているんじゃないの?」という痛烈な皮肉である。英語こそが国際語であり、自身の文化こそが最高で、他の異なった文化は認めず駆逐する。アメリカがイラク戦争を筆頭に行なってきた行為そのものへの皮肉。
 アメリカ人に虐げられているメキシコ人だからこそ描ける作品である。だから、日本を舞台にした物語はひどく違和感があった。他の三つの物語との繋がりも無理矢理っぽい。菊池凛子演ずる少女がストレートに言語を失った聾唖だったのは、おそらくそうするしかなかったからだろう。無駄に脱ぎまくりだったなぁ。いわゆる“キレイ”な身体ではないところがステキだったけど。
 そういったところが伝わってきたのだけれど、俺は見ている最中も見終わった後も苛立っていた。「言葉なき説明過剰」なのだ。そして、それでいながら表現しきれていない。
 イニャリトゥは言葉を使わず「身体的」に表現しようとしているのだが、その「身体感覚」が「頭で考えている身体感覚」なのだ。この映画と似た“匂い”がするのはトミー・リー・ジョーンズ監督・主演『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』なのだが、こちらの方が「肉体の身体感覚」である。
 この違いはどこから出てくるのか? 
 トミー・リー・ジョーンズの身体感覚は、自身の経験からである。ハーバード大学出身、成績優秀でありながらフットボールのスター選手。その一方で演劇活動も行なう。俳優としてブレイクしながら、牧場を経営し、画面内でなくても彼はカウボーイであり、一貫して「肉体」を使ってきた。
 一方、イニャリトゥはラジオDJ、テレビ番組のプロデューサーから映画監督になった。つまり、彼は一貫して「頭」を使ってきたのだ。
 どちらが正しいわけではないのだが、「身体的」に何かを表現しようとした時、作品にこの経歴の差ははっきりと現われている。
 『バベル』に苛立ったのは、「頭で考えた身体感覚」が居心地悪かったからかもしれない。
 うーん、ちょっと乱暴な感想だったか。日本のクラブのシーンで照明がチカチカしまくり、気分悪くなる観客がいたそうですが、あれはなるね。ピカチューだって痙攣する。