不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ギムレットが遠過ぎて

 レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』(村上春樹訳)読了。
 映画字幕家の清水俊二のばっさりとした訳に比べ、村上春樹の訳は丁寧に“掘り起こされている”。とは言え、俺は原文を読んだ事がないし英語力もないので、今回の村上訳と清水訳の違いをどうこう言う資格はない。両方面白かったし、好きだ。ただ、それだけ。
 そして、この訳の違いを楽しむのならばともかく、どっちがいいだの悪いだのというのはナンセンスだ。ある一定の力を持った訳者ならば、絶対に面白い。それくらいの力が『The Long Goodbye』にはある。
 内容について言う事も何もない。いつ読んでも、完璧と言える作品である。何故、こんなに魅了されるのだろう。「Goodbye」(お別れ、さよなら)という単語は、いつだって心に響く。村上春樹とチャンドラーの作品には共通するものを感じる。何かを探し求めて探し出す。しかし辿り着いた時、その“何か”は自分が求めていたものではない。
 美しい物語であり、すばらしい文章だった。そういう作品の巻末につけるには、訳者あとがきは少々長過ぎる気がした。村上春樹の解説は読みたいが、それは別の場所に掲載し、本では短く〆て欲しかった。そう思ってしまうほど、『ロング・グッドバイ』は完成されていた。俺が心酔しているからそう思うのかもしれないが。
 やり過ぎという気持ちがあるものの、印象に残ったもの(有名なものばかりだが)を下記に引用した。これらの言葉は、間違いなく俺の“何か”を形成している一要素なのだろう。装丁が気に喰わないが、村上春樹の手によって生まれた、もう一つの『The Long Goodbye』に出会えて、幸せだ。

「何も考えるなとその男は言う」、彼の声は今では少しとろんとしていた。自ら語りかけるようにそう言った。「考えるのはよせ、夢見るのはよせ、愛するのはよせ、憎むのはよせ。おやすみ、優しい王子様」

「私にはさよならを言うべき友だちがいたと君は言った。しかしまだ本当のさよならを言ってはいない。その写真複写が紙面に載ったら、それが彼に対するさよならになるだろう。ここにたどり着くまでに時間がかかった。長い、長い時間が」

 さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。

「元気でやってくれ、アミーゴ。さよならは言いたくない。さよならは、まだ心が通っていたときにすでに口にした。それは哀しく、孤独で、さきのないさよならだった」

ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ