不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ひとがら

 食事の席で、大学卒業と同時に上司が俺を拾ってくれて今に至るという話になった時に、同席していた人がその理由を上司に問うたところ、うーんと考えて出てきたのが「人柄」であった、ちゃんと聞いたのは今日が初めてだと思う。そうか、人柄か、悪い人柄を拾う事はないのだから、よかったという事なのだろう、人柄って特に他に理由がない時に出てくるもののような気がするが、しかし一方で最終的には人柄が決め手になるわけなので、いいと言われたのなら悪い気持ちではない。

 時折思うのだが、思考を言葉にする時に、思考が言葉に寄っていくよりも、言葉に思考が寄っていっている気がして、それを逆に言うなら言葉を知らなければ思考はできないのではないか、言葉を知っているとは知識や数を知っているという事でなく、使い方だ、要は文体だ、つまり文体こそが思考であり、思考とはその人であり、だから文体とはその人、その人柄そのものなのではないか。

 そうすると、俺はここに、飽きもせずに、それほどうまくもなく、おもしろくもなく、いや卑下するのはやめよう読んでいる人がいるし意味がない、ともあれ文章を書き続けている、それはここに人柄が表れている、とも言える。俺に会った事がなく、この文章だけを読んでいる人は、一体俺をどんな人柄で見ているのだろう、どう見えるのだろう。実際に俺を知っている人は、文体と実物とイメージが合っているだろうか。いちいち聞くものではないのだけれど、ちょっと気になる。