不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ラ・ラ・ランド/星掴む者が踏んだ夢


 見終わって映画館から出る途中、横を歩いていた女性二人が「ミュージカルって言うけどツギハギだったね」と話していて、大きく頷きそうになった。感情、関係、物語を歌と曲で繋いだり埋めたりするミュージカルを期待すれば肩透かしになること間違いなしで、ミュージカルを銘打っているのにそれ以外のシーンの方がいい、という異形の作品。特にセバスチャン(ライアン・ゴズリング)とミア(エマ・ストーン)の二人で歌うシーン(ミュージカルではない)と、サプライズパーティのくだりは白眉。
 映画館で手を繋ごうとするドキドキや「夢か愛か」という二者択一といった古典的ラブロマンスは主演二人のチャーミングさもあって(笑う時も泣く時も顔をクシャクシャにするキュートなストーン、薄い笑顔とほつれ髪でセクシーさを存分に見せつけるゴズリングには文句なし)思いのほか見入るものがあったし、技巧と緊迫感に溢れた長回しも見応えたっぷりあるんだけど、とってつけたかのような主役不在のオープニングミュージカルから気持ちが冷めっぱなしで高揚する事は一切なく、だんだんミュージカルシーンがまがいものにしか見えなくなってしまった。
 音楽と演劇は他の芸術と違って作品が残らない。録音・録画という方法はあるけれど、あくまで現在ではなく過去になる。作品が物質として残れば、作品の現在を創造主も他者となって見る事ができるし、現在はずっと残る。だけど、残らない音楽・演劇は、見たり聞いたりする他者がそこにいて初めて存在するはずだ。そういう点からいえば、前作『セッション』でも思ったけど、デミアン・チャゼルという監督はたしかに音楽を愛しているかもしれないが、それはあくまで音楽を奏でるエゴとしての愛だけで、どんな音楽も聞かせる(楽しませる)他者がいて初めて成立する事を理解していないのではないかと思う。勝手な言い分だけど。
 いや、チャゼル監督は音楽をそれほど愛していないのかもしれない。作品内の話ではあるものの、ジャズが瀕死というがとてもそうは思えない。音楽の認識がアップデートされていない印象を受けた。ミュージカル映画もそうで、だからこれほどツギハギの歪なものになってしまったのでは。あるシーンではせっかくタップを踏んでいるのに、タップの音が聞こえない。いやいや、もしかしたら映画だってわからない。何せ、映画好きが上映中のスクリーンの前に立つシーンが撮れるくらいだ。オマエ何してんだと、野次くらい飛ぶだろうし、舌打ちの一つくらいあってもいいはずだ。映画じゃない、俺を見ろ、俺の狂気を見ろ、と言いたいのだろうか。
 事ほど左様に、これはこれで一つの芸風ではあるけれど、私はちょっと「オマエさー!」と文句の一つもつけながら見ていたら、最後の最後に、まがいものをまがいものであるが故の美しき仮初の夢に仕立てやがって、冷静に考えればミアもセバスチャンも成功を掴んでいるはずなのに、確かにそこには痛みが伴っていて、目配せ、「ようこそ」に込められた思い、微かな笑顔が切なくて、うまくて、ずるくて、何だか悔しくて、「俺は絶対にこの映画を愛さないぞ」と決めたのだった。
 ――とアカデミー賞授賞式前日に見て思ったのだが、皆さんご存知のような作品賞の顛末があって、まさかこういう形で「あったかもしれない人生」が目の前で起こるとは思わず、「絶対に愛さない」と決めた『ラ・ラ・ランド』の虚構に現実が覆いかぶさった瞬間、同情とは違う気持ちで、「愛してやろうかな」と思ってしまったよ。
 映画って、世界って、おもしろいね。