不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

アフター・ヤン/there is no something without nothing

 コゴナダ監督の前作『コロンバス』がよかっただけに期待しての一作は、一見「愛おしい」と評されるのもわかる作品だが、その実チグハグを衒いなく描いている過激といっていい映画。とりあえずいい映画ではあった、私は好きです。以下、感想にもなっていない感想を書くが、ネタバレ云々の作品ではないものの気になる方は読まないでください。いちいちこういう事を書くのは、本当になんだなぁ。

 「血は水よりも濃い、されど縁より薄し」という血ではない「家族」の風景ではあり、たしかに主人公ジェイク一家はヤンを含めてそうなのだけれど、そのジェイクはテクノ(ヤンのようなロボット)はいいがクローン(がいるのだがそれがこの世界でどういう存在なのかは不明)は嫌っている。その理由はよくわからないが、これは”人種“差別的なもののはずだ。また両親は養子のミカと故郷(という扱いになるのか?)である中国を繋げなければと考えている。 しかし何故? どうやらアメリカと中国で何かあったらしい事は何となくわかるが、はっきりはしない。

 一方で国や血から独立した存在であるはずのテクノのヤンが、劇中でもっとも血を求め、文化(≒国)とは何かを考え続けている。彼が何故それを求め考えているのかははっきりしない。 自身が”中国系“だからだろうか。だがこの時の”中国系“とはいかなる存在なのか。ところであのテクノ博物館は、明らかにあの人体の不思議展を意識しているはずで、人ならざる者の尊厳についても思いを馳せる。

 コゴナタが小津安二郎を敬愛しているのは知っている。小津が「家族」(そしてある意味での「国家」)をテーマにした事に対しての自分なりのアンサーなのかもしれない、小津が特に戦後に日本の家族の変化や崩壊を描いたように、ゴゴナダも現在の家族や国家を描いたのか、それが崩壊していると思っているのか。 何も押し付けない、描くだけなのでメッセージもテーマも見えにくいが、私はそう感じた。

 何かを求め、考え、見つめていたヤンの断片映像には光が溢れ、美しい、これだけで泣きそうになるほどに。一方、残された家族たちのシーンはいつもほんの少し仄暗かく、よく見えない。同じ風景のはずなのに、あんなに美しいはずなのに、暗く見える、気づいていないからか、光が足りないからか、求めていないからか。


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