不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

少しだけ死に続ける

 四十代でどうのこうのという話題が流行っているようで、前にも書いたが四十を不惑というのは惑うからなのだと改めてよくわかった。読んでいるいくつかのブログでもそのテーマが書かれていた。四十代に入ったばかりの自分としては他人事ではないと思って読むも、結局はケース・バイ・ケースなので他人事だった。でありながら少しだけ書くが、私はさしたる成功もしなかったが失敗もしておらず、何者でもない何者でしかなく、このまま何者でない人生が続いていくのだと、確信に近い事を思っている。人と違うと言えば、この日記を書き続けている事くらいだが、別に私よりも長くweb日記を書いている人はごまんといるのでやはり何者でもない。別にそれでよいと思う。書きたいから書いているだけなのだから。読んで欲しいという気持ちはなくはないが、あまりに読まれるのも困る、読まれてから言うべきものだが。そういう曖昧でゆらゆらと低空で長く飛んでいくのがいまの目標だ。八十歳まで生きるとして折り返し地点、むろんそこまで壮健に生きられるかはわからない、これまではそこそこ健康だったがこれからは故障が増えていくから、同じ長さでも同じ時間ではない。たぶんこれからは喪失が多いだろうと思う。そうでなくとも最近別れが多い。「さようならを言うのは少しだけ死ぬことだ」とフィリップ・マーロウは言った、初めて読んだ時はよくわからなったがいまは実感している。さようならを繰り返し、死に続けている、いつ果てにたどり着くのかは知らない。「さよならだけが人生だ、ならばまた来る春は何だろう」。