不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

四一歳の秋だから

 一昨年昨年と台風が近づいていましたが、今年は曇天模様だなと少し安心していたら霧雨のような一番イヤな降り方をする雨でした、そんな今日の東京でまた一つ歳を喰いました、四一歳、数えで四二だから本厄になるのでしょうか、いまいちわかりません、だいたいこの年齢になればいろいろあるだろうと思いますが、一つ年上の友人は厄年に離婚するなど本当に厄が降って来ていたのでバカにもできないかもしれません、まぁ厄払いみたいな事はするつもりはありませんが。

 一応この一年も無事だったと書こうとしましたが、再三書いてきたように夏は喘息で潰れたわけですので全然無事ではありませんでした。ダイエットをしていて、ある時を境にみるみる痩せていってしまい、開始前から七キロほど減ったのでちょっと体調を心配しましたがまぁこちらは特に何もなさそうです。ともあれ、結果的に無事であって一歩間違えればどうなっていたかわかりません。「元気があれば何でもできる」は「元気がないと何にもできない」、健康第一でいきましょう。

 前にも書きましたが、引き続き(仮)がぶら下がる日々、人生(仮)、生活(仮)、このまま(仮)がとれる事もなく、それが本番になっていくのでしょうか、わかりません。異常が続けばそれが日常になるものです、いいかどうかはともかく。とは言いながら、わりとずいぶん前から(仮)の気分のまま生きていて、自分の居場所がない、ここは違うという意識が常に抜けず、おい、四一歳のオッサンが何をモラトリアムめいた事を言ってんねんと思われそうですが、それが私の意識であってだからたぶん一生(仮)のままなのだろうなと思っています。

 考えなくだらだら書いていたら、例年通り、いつも通りの展開になってきましたのでこの辺でやめておきます。何かいい事、思わせぶりな事を書こうとして失敗していますね、もうこれでいいや。そうだ、「これでいいのだ」という軽さと肯定でもって本厄らしいこの一年をやっていこうといま思いました。(仮)であってもなくても、何もかもがこれでいいのだ、タモリ赤塚不二夫への弔辞を思い出しました。《すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れる》、それは結局はいつも書く「漂えど沈まず、和して同ぜず」「死守せよ、だが軽やかに手放せ」なのかもしれません。こんな感じの四一歳の初秋です、これでいいのだ。