不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

もう惑っていく事にします

 昨年は稀に見る強い台風が襲来し、今年も台風が近づいてきて雨男から大雨男へとなってしまいそうでしたが、台風が気をつかったのか急角度に進路を変更したので大雨男になるのは避けられた今日は私の誕生日であります。

 《無事に一つ歳を喰いました。今年ほど「無事に」という言葉が響く事もあまりなかろうにと思います》とは、二〇一一年の今日私が書いた一文で、言うまでもなく東日本大震災を受けてのものですが、まさかこの時以上に実感を込めて「無事に」という言葉を使う事になろうとは思いませんでした。幸いな事に、身近では知人が一人コロナに感染したものの症状は全く出ずに回復という具合な上に、私の仕事は影響なく(ちょっと影響があってほしかったと思ってしまうほど)個人としても昇給し、今年から始まったカミさんの仕事も順調という経済的にも我が家はノーダメージでした。読んでいただいている皆さんの健康と無事を願います。

 十九歳から二十歳、また二十九歳から三十歳になった時はさほど何も感じなかったのですが、三十九歳から四十歳というのは不思議な事にちょっと構えてしまいます。「不惑」という言葉があるからかもしれません。昨年はとにかくずっと不安定であって、今年もそうで「どうやって生きていこうかねぇ」と「どうやってでも生きていけるかな」とがせめぎ合っている次第で、「惑う年齢だから、わざわざ不惑というのだろう」と思ってはいてもいつまでこのぐらぐらが続くやら、とぼやいていたら世界や社会も不安定になってしまって、とかくこの世は先が読めず、読めないのなら読まないでいいのではないかとなりつつあります、投げやり。

 ここまで読んでいただいて、いつも通りだなと思われた事でしょう、私もそう思います。なので、もうこのまま、どうしようもなく迷って惑って移ろっていこうと決めました、唯一「不惑」という言葉に惑わない事にします。それはつまり、結局、やはりいつもの通り、「漂えど沈まず、和して同ぜず」であり、また昨年刻んでおいた「死守せよ、だが軽やかに手放せ」という事だろうから、うん、まぁやっぱりこんな感じで進んでいくしかないようです。毎年こういう再確認をしていますね、まぁそういう日なんです。惑い続ける不惑の男。