不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

ダンシング・ヴァニティ/反復と差異の生

 姉とのメールのやり取りの中で筒井康隆の名前が出て、そういえば文庫を持っているけど確かまだ読んでいなかったよなと何となく読み出したが、途中で読んだ事あるなと気づいて、読み進めていくとやっぱり読んだ事ないとなって、それを繰り返して小説の構造とリンクした妙な読書体験になった。筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』、読む前からどんな小説かは知っていたけど、知っていると体験するとではえらい違いとはいったもので、これはちょっとすごいと驚いた、アイデア一発ならともかくこれを書ききってしまうのが筒井康隆の天才たるゆえんであろう。

 どんな小説かは、まぁ冒頭を一読していただければすぐにわかる。同じ場面が反復されていく、だいたい三回は反復される、ほとんど同じだ、だけど差異はちゃんとあって、その差異が増幅していくようにして次の場面へと展開していく、それがひたすら繰り返されていき、主人公の死まで語られる。展開が遅いのかというとあっさり時間は過ぎていき、思いも寄らぬ事が起きる、いつの間にか主人公は戦争に参加していて十三年経ちましたという具合だから、ついていくのが精いっぱい。

 おもしろいのはこうした反復と差異の増幅に理由が、いわゆる小説のオチやネタ晴らしがあるのかというと、それはない。小説の登場人物で反復に気づく者はいない、反復と差異があるだけ。九年前の小説なので様々な人がいろいろとすでに論じているだろうけど俺が一つ考えたのは、これは死の淵にいる主人公の走馬灯ではないかという事。記憶、思い出なのだ。だから不確定で思い出すたびにほとんど同じだけど細部に差異がある、それは不思議ではないから誰も不思議に思わない。

 いわゆる社会人になって五、六年経った時に、同じ業界で違う会社の後輩に相談された、後輩は働き出して一、二年ほどだったか。いわく、「やりたい仕事だったけど、毎日ルーティンワークになって、つまらなくなってきた」。俺は言った。「どんな仕事でも結局はルーティンワークになるよ。会社員でも職人でも音楽家でも画家でも。微妙な違いがあるだけ」。ルーティンワークは反復で微妙な違いは差異、すっかり忘れていたずいぶん前の会話を読み終えてから思い出した。たぶんこの会話、この場面も次に思い出した時には差異が違っているのだろう。