不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

四月二八日、戻る、どこに

 もともと出社の予定だったが、前夜に上司から「午後に打ち合わせするから来て」と言われてちょうどいいと思っていたら、午前は会社に誰もいない。午後に来ればよかったなと一人ぶつくさ。雷鳴る雨が降りしきる音を聞きながらの打ち合わせでは上司から何だか知らないがゲキを飛ばされて、「まぁわかります」と「何言ってんだ」とが半々になりながら相槌を打った。そんな事を言うならウンヌンカンヌンアアダコウダグダグダグダグダと書こうと思って実際に書いてみたけれど、読み返したらウンザリするような愚痴でしかないので全部削った。そういうものも記しておいた方がいいとは思うけれど、今回はなし。どうもマイペースのわりには他人の評価を気にしすぎなきらいがあるので、もう少しあっさりとした折り合いをつけたい。まだ早い時間に会社フロアの電灯があちこち消えていく、俺も出る。

 朝日新聞高橋純子記者の書くものは俺は全く好きではないのだが(むしろ嫌いな方)、先日のコラム「多事奏論」の一節はよかった。以下引用。

 いま世界中の各界各層で、壮大な「選び直し」が行われている。大事なもの。必要なもの。なくてもいいもの。いらないもの。自分は不要とされる側の人間ではないかと心細い日々を過ごしている人もたくさんいるはずだ。もちろん、私も。
 事態が仮に終息したとして、私たちはいったいどこに「戻る」のだろう?
 不安がコロンと背筋を転がり始めた時は音楽を聴く。2年前のNHK連続テレビ小説半分、青い。」の主題歌「アイデア」は、人生に影がさした時こそアイデアを、雨の音で歌を歌おうという前向きさと、そこに差し込まれた次の一節が、効く。
 「生きてただ生きていて 踏まれ潰れた花のように にこやかに 中指を」
 ままならない日々をアイデアで乗り切る賢さを。尊厳を踏みにじってくる相手には、にこやかに中指を立てて抗議するしなやかな強さを。どこに戻っても、戻れなくても、この二つがあれば生きていける。いまはそんな風に解釈して聴いている。*1

 《私たちはいったいどこに「戻る」のだろう?》。「戻れない」事もあるけれど、もう「戻らない」方がいい事もある。俺がいる会社も業界も戻る事が本当にいいのか。高橋記者の言う「選び直し」は「戻る」か「戻らない」かの選択もある。俺に「戻りたい」場所はない。愛着も執着も、哀愁も感傷もあるけれど、妙にデラシネ(かっこつけた言い方だな)で傍観者気質の俺は、漂えど沈まず、そのために賢さとしなやかな強さを持ちたい。初めて高橋記者に共感した、もっともこの部分以外は新聞記者なのに自分に酔いすぎた内容でうんざりしたけれど。