不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

俺たちの十五年

 The Yellow Monkeyはドームツアーを前に自身の公式Youtubeチャンネルで過去の映像の蔵出しをしているのだが、今日は2004年12月26日に東京ドームで行われたメカラ・ウロコ15の“JAM”だった。この時、俺はここにいた。

 これはライブではなくエキシビジョン、衣装や楽器、小道具、グッズ、舞台装置の展示と過去の映像を編集したフィルムの上映をするイベントで全国を回った最後が東京ドームだった。この時、メンバーが登場する事がアナウンスされていたかどうかは忘れた。しかし基本的に思い出番長である彼らだったら出てくるだろうとは思っていた。会場を見たら真ん中にステージらしきものがあった(と記憶している)ので、もしかしたら一曲くらい演奏をするのかもとも思っていた。

 果たせるかな彼らは登場し、定位置について聞こえてきたのはハイハットを刻む音、代表曲の“JAM”だった。俺は正直ガッカリした。“JAM”は名曲だ、特別な曲だ、だけどこの時にふさわしいのか、明るいさようならの“プライマル。”の方がよかった。その“プライマル。”がまさかおかえりの曲になろうとはこの時は夢にも思っていなかった。それでも代表曲だしと聞いていたが、そもそもライブのための音響装置ではないであろうから聞こえてくる音はガシャガシャだし、何よりパフォーマンスが駄目だった、バラバラだった、この日記でも何度か「残骸のような“JAM“」と書いた事があった。終盤のリフレインの後、演奏をとめて吉井は「ずっと歌っててください」と言ったのだが、実は俺はその時は何を言っているのかよくわからず、何だかなぁとずいぶん冷めた気持ちになっていたのを覚えている。解散をはっきり認識したのはこの2年後の吉井和哉の武道館で聞いた“JAM”だった。

 ここから15年、メンバーにとってもファンにとっても、最も暗黒の瞬間であろうこの映像をアップできて、見ながらこんな時代もあったねといつか話せる日が来るその日がまさに来た事が、どれだけ幸せな事なのかと思う。

 この演奏は2004年12月26日で、解散したのはこの前のはずだが正確な日付はいつだっけと改めて調べてみたら、7月7日に正式発表をしたとあって驚いた。この二日前、すなわち2004年7月5日は母が亡くなった日だからだ。母と最愛のバンドを同時に亡くしていたのか、全く覚えていない。確かに活動休止後の吉井和哉(当時はYOSHII LOVINSON)のアルバムを聞けばバンドを再開するとは思えないので、解散もやむを得ないと考えていたかもしれないけれど、それにしたって自分がどういう気持ちでいたのか全く思い出せない、穴に落ちたような感じだったか。

 ただ、これは覚えている。メカラ・ウロコ15のチケットは二枚買えて、しかし行く相手がいなかったので、大学卒業後ほとんど連絡をとっていない友人に二年ぶりに誘いのメールを出した。いまどこで何をしているのかも知らなかった。彼とはイエローモンキーとジョビジョバが好きという共通点こそあったが、それ以外は性格も生き方もほとんど違っていた、にもかかわらず妙に気が合っていた、合っていたけど在学中はそこまで親しくはならなかった。すぐに返信が来て、久し振り、ところでこのイベント行かないか、行く行く、そして当日を迎えた。改めて最近どう、と聞かれたので実は母親が亡くなったと言ったら、お悔やみの言葉と共に「なんだ、言ってくれたら、かけつけてお経あげたのに」と言った。友人は日記でもちょくちょく出てくる寺の坊主Tである(当時はまだ坊主になる前だったが)。母の死から五ヶ月、初めてそれにまつわる言葉のやりとりでちゃんと笑えた気がした。

 この時から仲良くなって、多い時は週に二回一緒に遊んでいた。映画に行き、ライブに行った、何をするわけでもなくコーヒーと共に様々な話を延々とした、いまもしている。吉井和哉のライブにも一緒に何度も行った、イエローモンキーが復活すると騒いだ。復活後も一緒にいくつか行った。明後日の名古屋は一緒ではないけど、東京ドームは二日連続行く予定。残骸だった“JAM”は美しくよみがえり、バンドは第二のピークを迎えている。俺たちもいろいろあった、得たものもあれば失ったものもある、でもDANDANそうねDANDAN形だって変わる、と軽やかにそばで歌ってくれるバンドと、また次の時間へ。今日見た『ジュマンジネクスト・レベル』にこんなセリフがあった、「歳を取るということは、天からのギフトだ」。ちょろっと感想を書くつもりだったのに、こんな長々となるとは思わなかったな。

どんな夢も叶えるあなたに会えたよ
どんな痛みにも耐えるあなたに会えたよ


THE YELLOW MONKEY – DANDAN (Official Music Video)