不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

対比のこと/続々々・『OUATIH』の話

 少しだけ『ユリイカ』を読んだのだが、蓮實重彦×入江哲朗の対談で『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の事を『ワンス・アポン』と略していて、これは二人が実際にそう呼んでいたのか、それとも各々別の呼び方をしていたのを編集部が統一したのか、どうなのだろうと余計な事が気になってしまった。

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 リック・ダルトンの西部劇映画撮影シーンと、クリフ・ブーンのスパーン映画牧場との対比並走が映画の緊張感のピークだったが、その前に女性についての対比を書くべきか。リックは撮影で八歳の子役トルーディ(ジュリア・バターズ)と、クリフはヒッチハイクで自称18歳のプッシー・キャット(マーガレット・クアリー)と対峙する。リックはトルーディの横に座る事に許可を求め、痰を吐いてしまった事を謝罪し、話をちゃんと聞き、こちらもキチンと話す、演技で激しい事をすればすぐさま安全を確認する、紳士であると同時にたとえ若くとも共演者として対等に接している。クリフは三度目の邂逅でプッシー・キャットを車に入れて目的地まで連れて行く、そこがスパーン映画牧場だ。彼女がヒッチハイクに応じた謝礼として性的行為を持ち出すも、クリフは一笑して拒否する。「これまでムショ行きを逃れていたのに、君のせいで行くのは嫌だね」、ここでクリフが女房殺しで捕まらなかった事がわかるがそれはともかく、きっぱりとした拒否である。プッシー・キャットはふて腐れるも無理強いはしない。対等に接するべき時は対等に、だが時に「子供だ、君は」とキッパリ言う、それが大人なのだ。子供との性的行動で有罪判決を受けてアメリカから逃げたロマン・ポランスキーはこれをどう見たのだろうか、ポランスキーの妻の「誰かの悲劇的な体験を当人の気持ちも考えずに都合よく利用するなんて神経を疑う」という批判も頷ける面はある、タランティーノはかつてポランスキーを擁護したとも聞く、まぁ映画の外の話はこの辺にしておく。

 リック側は西部劇映画を撮るという「嘘」であり、クリフは現在でありながら西部劇のような「現実」である、裏側を撮っているために西部劇には見えない西部劇の中のリックと西部劇そのものにしか見えないクリフという対比、見ていてゾクゾクした。リックは前半の撮影でセリフをとちって休憩用トレーラーで自分に激高する、そして後半の撮影に挑み会心の演技をする、やりきって監督から賞賛されるだけでなくトルーディからも絶賛されつい涙する。クリフはかつてよく行っていた場所にたどり着いたらよくわからない集団に占拠されて不穏な空気を感じ取る、何を言われようが気のすむまで様子を見て、そこの住人だけでなく好意を持ってくれていた女の子からも罵倒を受ける。事を終えた二人への周辺の評価は全く違う。

 リックは嘘なので撮影が終わればその場も終わりだが、クリフの現実は続く。あれほど不穏な空気の中でノンシャランとしていられるのは戦争という殺し合いの場に実際にいた経験があるからであろうし、不気味な空気に本当の暴力を持ち込んで徹底的に打ちのめす事ができる、その身のこなしと佇まいはブラッド・ピットのキャリア屈指の演技だったと思う。そこでまたもや西部劇さながらに男が馬に乗って駆けつけるシーンは、「西部劇」でありながら馬のシーンがないからというQTの妙なこだわりに見えて、颯爽とした風が吹くよいシーンだった。時間が進んで映画の終盤、事件当日、スパーン映画牧場で暴力に見舞われた彼女らが、そこに誰がいるかを知って「私たちに殺しを教えた相手(映画製作者)に、殺しを教えてやろう」と、嘯いたのか己を誤魔化したのか、そう言ってナイフと銃を持って襲いかかる、すなわち暴力を振るおうとしたわけだが、「でもそれはやっぱり嘘の殺し方だろ? 俺は本当の暴力を知っているんだよ」といとも簡単に返り討ちするクリフの「現実」と、映画という「嘘」で使った事がある武器でもって思わず見ている我々が「嘘だろ?」と思うような方法で殺したリック、ここでもまた対比が出来上がっている。そうして幕を閉じるこの映画も「現実」を嘘で上書きしたようなもので、どこまでも「現実」と「嘘」の対比の構図でできあがっている映画なのであった。