不発連合式バックドロップ

日記と余談です。

休日派ボルタンスキー日記

 朝、新聞やネット記事、あるいはSNSで発せられる選挙にまつわる意見をいくつか読んで、ふーん、なるほど、そうねぇ、といろいろ思う。どういう事に対してものめり込まずに距離を取ってしまうタチで、それを中立や冷静を装った冷笑的だと言われれば笑ってはいないと反論するがそう見られてしまうのは仕方ないとも思っている、自分にとっての筋みたいなものを違えたくないだけなのだが。

 いつもと違う回路を刺激したい、視野を広げたいと思って久し振りに美術館へ行く、国立新美術館乃木坂駅に着くと妙齢女性が結構いたが彼女らは「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展が目当てだったようだ。

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 ここまで来たのでいつもと違うものを食べようと、美術館内にあるフレンチレストランで昼飯。行った方は分かると思うが、逆円錐状になっている上の、地に足ついていないところにあった。フレンチ料理は味が損なわれない限界まで塩がふられている、とよしながふみが書いていて、いつ食べてもそれを思い出す。

 企画展示室2Eで開催中の「クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime」展へ。

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 俺は全く知らない人だったが、ネットでいくつか見に行った人の感想を見たし、カミさんも興味を示していたので今回の観賞となった。入るなり、「咳をする男」という、ひたすら咳き込んでいるを映した映像作品があって、なんだろうこれはと不思議に見ていたのだが、俺も喘息の気があるものだから、映像内の男の苦しさが妙に伝わってきて、ちょっと苦しくなり、途中で離席。おそらくこれをつらいと思う人は結構いるはずで、いま考えればこれを出だしに配置する事で、作品にいる他者と自己との境界線を曖昧に、私たちも他者の一員なのだと思わせた。

 今回の展覧会がボルタンスキーの「50年の奇跡━━待望の大回顧展」で、作品の番号と見ていく順番がゴッチャになっていて、予想だけど配置を相当練ったのではないか、とするとこの展示そのものがボルタンスキーのアート作品になっていて、多くの作品は「去っていってしまった人々」を扱っており、その合間に「境界」を曖昧にする作品があって、そうする事で「去っていってしまった」他者と観賞している自己との境目を曖昧にしていくようにしていたと思う、思うというか俺はそう感じ取れた、実際どうなのかは知らない。近いうちにボルタンスキーにまつわる本を読んでみるつもり、水声社から出ているようだ、図書館にあるかな。

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 見終わったら、とっとと来世、ではなく、地元に戻る。本屋に寄って、タピオカミルクティーを飲んでから(そういえば容器が統一される事になるのだろうか、その間にブームは去るが)、買い物をして帰宅。読書。夕飯はホッケの干物、サラダ、白米、赤だし、切り干し大根の漬物。アイスラテを飲みながら再び読書。入浴後、日記を書いて、本を持って寝室へ。明日は会社。